2015年9月16日水曜日

9 ウィリアム・グレイ・ベイヤー 「人形師の死」

Death of A Puppeteer (1946) by William Gray Beyer (? - ?)

元軍人の友人に連れられて射撃場で拳銃とライフルを撃ったことがある。銃に触るのはそれが初めてだった。言われるとおりに狙いをつけて撃ったところ、双眼鏡で弾の当たり具合を確認していた友人に「初心者にしちゃ狙いが正確だ」と言われた。あの時思ったのは、火器というのはいくら安全装置がついていてもアブナイものだと言うことだ。銃は片手で操作ができるようになっている。それは誰にでもできる簡単な操作だ。子供が親の銃でいたずらして命を落としたり、兄弟に大けがをさせるのも当然だと思った。

この小説の主人公は銃の専門家で、物語は彼が友人の家へ週末を過ごしに行くところから始まる。この友人は劇作家なのだが、銃が趣味で、射撃場だけでなく、銃の性能を測るいろいろな器具まで持っている。二人の会話には専門的な銃の用語がぽんぽん飛び出すのだが、それを読んで私は「ああ、アブナイ、アブナイ」とひたすら思った。スパイ小説の中でプロの暗殺者が銃を扱うというならともかく、ミステリの中で素人が銃をもてあそぶのを見るともう先が見えている。案の定劇作家は銃の暴発で死んでしまう。しかし事故ではない。誰かが彼の銃に細工をしたのだ。

この劇作家リンカーン・フォレスターは、日本の坂田藤十郎という役者をちょっと思い出させる。藤十郎は好きでもない女を好きになった振りをして、恋した女がどんな表情・仕草をするか研究したという話があるけれど、リンカーン・フォレスターという劇作家は身近な人々を彼の家に招待して一堂に集め、かつさまざまな葛藤を彼らに与えてその結果どのような人間的化学反応が起きるかを観察しようとした。呼び寄せたのは年若い姪夫婦、法律家夫婦、リンカーンが肉体的関係を持っているらしき人妻とその夫、リンカーンのエージェント(アメリカには作家と出版社をつなぐエージェントというものが存在する)、さらに最初にあげた銃の専門家であるクリフ・パークである。リンカーンは遺書の変更、つまり財産を遺贈する人を変更するように見せかけたり、エージェントを首にすると言ってみたり、不倫関係の暴露をちらつかせたりして客の一人一人に厭らしく「圧力」をかけたのだ。そして彼らの反応をよく見て新作の劇に生かそうと考えたのである。タイトルの「人形師」とは、客を人形のように操ろうとしたリンカーンのことを指す。

その危険な実験の結果、彼は銃に細工を施され命を失う。客たちからすれば「ざまあみろ」というところだが、一応犯人はきちんと突き止めなければならない。そこで地元の警察署長の登場となるのだが、その捜査の最中に第二の殺人が起き……。

筋を詳しく説明するのは控えるけれども、大きな屋敷にたくさんの人が集められ、連続殺人が起きるという、ミステリの本道を行くような作品である。ちなみに探偵役はすでに述べた銃の専門家であるクリフ・ハンター。警察は、愛する女性をかばって自分が犯人だと名乗りを上げた男を逮捕するが、彼が犯人でないことを知っているクリフ・ハンターはその専門知識を活用したり、罠を張ることによって真犯人を見出す。

ごく普通の作品でこれといった印象もない。ただ、二点、注意を惹く部分があった。一つは、「人間には性格というものがあって、犯罪は暴力的な性格の人間によって引き起こされる」と考えるある登場人物に対し、クリフ・ハンターは、「人間はすべて暴力的である、日曜学校へ熱心に通う人も戦争になったら平気で人を殺す、われわれは戦争をはじめた人間を非難するが、大義を背負って人を殺すことに野蛮で残忍な悦びを感じるものだ」と語る。人間は置かれる立場によって百八十度変化しうるという認識を、ハンターは戦争から得た。このことは記憶に留めておくに価すると思う。

もう一点。物語の最後では、例によって探偵役のクリフが解説を加えながら事件を振り返ってくれるのだが、そこで登場人物の真意が歪んだ形で言語化されたり、誰が聞いても特定の意味しか持ち得ないと思われる言葉が、犯人にだけは別様に受け取られていたり、また聞き間違った言葉がじつは真実をあらわしていたことが明らかにされる。この表現やコミュニケーションに潜むねじれや歪みの現象はまさにフロイト的で、面白い着眼点だ。ヘンリー・カットナーの The Murder of Eleanor Pope を扱ったときにも書いたが、ミステリと精神分析の間には奇妙な類似がある。それが本作のような無名の作品の中にも見られるのである。けれども、残念ながらその問題性が作品全体の中で追求されているとは言えない。

この作者は生年も没年も確認できなかった。ウィキペディアにはドレクセル・インスティチュート(現在のドレクセル大学の前身)を苦学して卒業し、その後タクシー運転手やセールスマンや警察の仕事を転々としながら一九三九年から一九五一年にかけて「アーゴジイ」などのパルプ雑誌に作品を寄稿していた、とある。