2015年9月5日土曜日

6 フォックスホール・デインジャーフィールド 「陽気な九十年代殺人事件、あるいはヴィクトリア朝的犯罪」

That Gay Nineties Murder Or, A Victorian Crime (1928) by Foxhall Daingerfield (1887-1933)


これはダブルデイの「ザ・クライム・クラブ」から出た作品。

表題の gay nineties というのはウィキペディアによると一八九〇年代をノスタルジックに指すアメリカ英語で、イギリス英語の naughty nineties にあたるようだ。引き続きウィキペディアから引用すると、九〇年代はビアズレイのデカダンな絵、ワイルドのウイットの効いた劇と彼の裁判、上流社会のスキャンダルと婦人参政権運動の開始などに彩られた十年である。アメリカでこの用語がつかわれるようになったのは一九二〇年代で、リチャード・V・カルターが雑誌「ライフ」に the Gay Nineties と題する一連の絵を載せたことがこの言葉が流布するきっかけだったらしい。カルターがその絵を本にまとめて出版したのが一九二七年だから、デインジャーフィールドはその翌年にこの流行語をタイトルに取り入れたミステリを出版したわけだ。彼の幼年期が九〇年代だから、案外なにかの思い入れがあったのかもしれない。

本書の事件が一八九〇年に起きるためか、文体も回りくどくて、大げさで時代がかっている。おまけに主人公で探偵役のミス・コーネリア・ハンターはこの頃の上流婦人の例にたがわず、なにごとをするにもゆっくり時間をかける。今の人間のようにせかせかしてはいないのだ。そこで読むほうも覚悟を決め、のんびりとした気持ちでヴィクトリア朝的犯罪なるものを愉しまなければならない。

しかしこの本は読んでいてあくびを連発するようなしろものではない。事件の背後で何が起きているのかを見抜くことは相当に難しい。私は最後の数ページで明かされる真相に、ああ、そうかと思わずつぶやいた。分かってしまえば、なるほど十九世紀後半に流行っていた、メロドラマ的な小説の中にこういうのがあったな、などと思い当たることも多々出てくるのだけれど。

さて、事件は一八九〇年六月、ケンタッキーのハリスヴィルという片田舎で起きる。主人公のミス・コーネリア・ハンターは四十過ぎの未婚女性で黒人の召使いとともに一人大きな屋敷に住んでいる。暑苦しい、いやな日々がつづくある夕方、隣のアップルドア家で悲劇が起きた。アップルドア家の主人は絨毯を売っている商売人で、奥さんと娘さん二人、さらに商売の手伝いをしている若い男がいっしょに住んでいる。その娘さんのうち、年若いほうが自殺をしたのである。

家族によると自殺の原因は「報われぬ恋」ではなかったかと言う。彼女はもと医学生で今は父親の商売を手伝っているエルティンジという青年に恋をしていたのだが、エルティンジは彼女ではなく彼女の姉を愛していたのである。死因審問でも彼女の死は自殺と結論された。

しかしコーネリア・ハンターはこの事件に奇妙な印象を抱いていた。第一にエルティンジが彼女の家に来て異変を知らせたとき、死んだ娘は「殺された」と言っていたからだ。第二に、慌てて現場に駆けつけた彼女は、娘の額が銃で撃ち抜かれているだけでなく、そこが酸のような薬品で焼けただれているのを見た。死体のそばには自殺に使ったと思われる銃が転がり、手には薬品の瓶が握られていた。娘は酸を飲み、それから額を打ち抜いたのか? その際に薬品が額にもかかったのだろうか。さらに現場には薬品の瓶のラベルがはさみで切られ散らばっていた。自殺の前になぜラベルを切ったりしたのか。

それだけではない。彼女は死んだ娘の部屋に入ったとたん、地下室と屋根裏部屋の双方からほぼ同時にドスンという大きな音を聞いた。

いかにも秘密がありそうな状況である。

アップルドアの人々は、事件のあと、悲劇の起きた家にいるのはいたたまれないと、旅に出ることになる。私は事件の当事者たちがいなくなったら話が進まなくなるじゃないかと心配したが、杞憂だった。彼らが家を出てからも次々と奇妙な出来事が発生する。その出来事の背後には一貫した意味があるのだけれど、それを見抜くのは、さっきも言ったように容易なことではない。私はその謎に牽引されてこの物語を最後まで読んだ。

ある意味でこれは実験的な作品である。ミステリも小説も一九二〇年代に大きな変貌を遂げた。簡単に言うと、ミステリはメロドラマの色彩が濃い探偵物語から、演繹的論理に主眼を置いた近代的ミステリになり、小説は十九世紀的なリアリズム小説がモダニズムの小説に変貌したのである。The Gay Nineties Murder は、古い探偵物語の素材と文体を用いながら、しかし近代ミステリ風の構成・展開を試みた作品と言える。古い酒を新しい革袋に盛ったようなものだ。その試みが成功しているかどうかは疑問だが、少なくとも退屈せずに読める程度には仕上がっている。