2016年7月22日金曜日

番外14 マックス・アフォード 「暗闇のふくろう」

番外13
Owl of Darkness (1942) by Max Afford (1906-1954)

以前このブログでレビューした「天国の罪人たち」が面白かったので、マックス・アフォードをもう一冊読んでみた。このブログでは一人の作者につき一作品しか扱わないことにしているので、このレビューは番外とする。しかしミステリとメロドラマの関係を考えさせる、いい作品である。

ミステリとメロドラマの関係については、このブログで何回か書いた。十九世紀の犯罪小説は、基本的にメロドラマである。ところがこの手のものが量産された結果、読者は(そして作者も)その類型的なパターンに飽きてしまったのである。

メロドラマのいちばんの特徴は偶然が多用されることだろう。偶然が起きることで物語は展開していく。ところが次第にそれとは別の仕掛けで物語を展開する手法が編み出されるようになった。それが演繹的な推論を用いた手法で、一九三十年代にあらわれた近代的ミステリは、この手法の採用によって、従来のメロドラマとは一線を画すことになった。演繹的推論を用いた手法を全面的に用いて、物語の様相がころころと、それこそ万華鏡のように変化する作品も書かれるようになった。この手法は、ミステリだけでなく、普通の文学作品にも応用されている重要なものだ。

メロドラマとの対峙が作家にとって一つの課題であったせいだろう。二十世紀前半のミステリにはよく「メロドラマ」という言葉が出てくる。本書もそうで、こんな一節が出てくる。
準男爵が怪盗フクロウではないか、という考えを、ジェフリーはすぐに捨てた。それではあまりにもメロドラマじみている。しかしこの事件は、なにからなにまでがメロドラマそのものではないだろうか。若い発明家、貴重な化学物質の製造法、羽を持ち、フクロウのマスクをかぶった犯罪者。しかも彼は意のままに現れたり消えたりすることができる。
二十世紀に入っても無自覚のままにメロドラマ的ミステリを書きつづける人もいたかもしれないが、しかしそれは読んでいるこちらのほうにとっては堪らない。上の引用のように作者がメロドラマを書いていることを自覚しているなら、まだ救いがあろうというものだ。もしかしたら作者はメロドラマになにか一工夫を加えてくれるのではないだろうか、という期待がもてるからだ。

確かに本書には工夫がある。しかしそれはメロドラマと異質な要素を付け加えるということではなく、メロドラマ的な要素をこれでもかと言わんばかりに、ぎゅうぎゅうに詰め込んで見せた点にある。美しいが家が貧しくて苦労しながら生活していた少女が、じつは貴族の出身であったと判明する、などというのは、メロドラマの仕掛けとして常套の手段だが、そんな感じに本書の主要登場人物はすべて秘められた過去を持っている。事件の展開はあざといくらいにセンセーショナルで、私は読みながら「さすがにそれはないだろう」とか「それはできないだろう」などと何度も思った。しかしそんなことはお構いなしに、本書はメロドラマの手法のオンパレードとなっている。いや、これは度を越したオンパレードだ。陳腐を感じさせるどころか、突き抜けたような愉快さ、爽快さ、面白さを感じさせる。本書の最後で怪盗フクロウはその意外な正体があばかれるが(ミステリの紹介記事ではいつも「意外な犯人」という言葉が使われるが、本書の犯人はほんとうに意外である)、あのような犯人の設定もメロドラマ的な考え方をとことん突き詰めたところに出てきたものだろう。(あまりくわしく説明すると犯人をばらすことになるのだが、たとえば犯人の父親が犯罪者であり、その家系には犯罪者の血が流れている、という設定などに古いメロドラマ的な考え方があらわれているだろう)

内容を簡単にまとめておく。まずフクロウと呼ばれる怪盗がロンドンに登場する。彼は金持ちに「あなたの宝石を~日にいただきに行く」といった予告状を送りつけ、フクロウの仮面をかぶってその家に侵入し、予告した品物を盗んで消える。このフクロウは、ある科学者の発明に目をつけた。それは安価に石油がつくれるという方法である。科学者がこの方法を見つけるや、イギリス、アメリカ、ドイツから、その技術を大金で買いたいという申し出が来る。しかし怪盗フクロウは、いついつまでにその製法をオレに渡せ。渡さないなら奪い取るぞ、と言ってきたのである。犯行予告の当日、スコットランド・ヤードは水も漏らさぬ厳重な警戒態勢を敷いて科学者のいる古い建物を取り囲むのだが……。

傑作とは言わないが、本作は非常に面白い。マックス・アフォードの才能を感じさせる。