2016年7月28日木曜日

72 ジョン・G・ブランドン 「ソーホー殺人事件」

A Scream in Soho (1940) by John G. Brandon (1879-1941)

gadetection サイトの情報によると、作者のジョン・ゴードン・ブランドンはオーストラリアの出身で、もともとはプロのボクサーだったが英国に渡り、「ザ・スリラー」などの雑誌に大量の短編、長編小説を書い人だそうだ。ちょっと凝った文章を書く人で、sartorial splendour とか Cimmerian blackness なんて文学的で高尚な表現が出てきたりする。

物語は第二次世界大戦中の、灯火管制下にあるロンドンを舞台にしている。ある晩、灯火管制のため真っ暗になったソーホーの広場に叫び声が響き渡る。近くに住むニュー・スコットランドヤードの警部マッカーシーと巡邏警官が駆けつけると、とある建物の前に血だまりが見つかる。しかし死体はどこにもない。叫び声がしてまだ数分しか経っていないから、犯人はまだ遠くへ逃げてはいないはずだ、もしかしたら犯人は死体とともに建物の中にいるのかもしれないと考え、警部は広場の出口に警官を配し、建物の中に入ろうとする。しかしその手配をしている最中に、彼はあやしげな男に目を留め、いつも自分の勘を信じる警部は彼の跡をつけはじめる。途中で警部は手下のちんぴら(警部は組織の中に部下を持つだけでなく、犯罪の情報などを仕入れるためにちんぴらたちをてなづけているのだ)に出くわしたので、尾行の役を彼にまかせて自分は広場に戻ってくる。するとどうだろう、広場の裏門で見張りをしていた警官が殺されているではないか。警部が広場を離れているあいだに犯人は警官を殺し、広場から逃げ出したのだ。

出だしはこんな具合だが、この殺人事件の捜査をする過程でマッカーシー警部はドイツのスパイがイギリスの軍事機密を盗み出そうとしていることを知り、それを身をもって阻止する、というような話に展開していく。

殺人事件を捜査する前半部分はいかにも detective fiction といった物語になっているが、後半に入ってマッカーシー警部がドイツのスパイ団と対決する部分に入ると、とたんにアクション・スリラーに変化してしまう。マッカーシーは敵のアジトに乗り込み、屈強のドイツ軍人を相手に派手な殴り合いを展開するのである。知的な遊戯を期待していた私はこの展開を残念に思ったが、しかしこの殴り合いのシーンにはちょっと迫力を感じた。
マッカーシーは虎のように飛びかかり、相手が発したかもしれない叫び声は強烈な一撃によって口の中に押しとどめられた。その一発で唇はめくれ、歯茎までが剥き出しになった。
原文のスピード感をうまく訳出できていないが、しかし最後の部分に元ボクサーらしいリアリズムがあることはおわかりになるだろう。こういうちょっとした描写が文章を生き生きとさせるものだ。

しかしボクサーとしての血がこういう場面を作者に描かしめたのかというと、どうもそれだけではないだろう。やはりわたしはこの小説には政治的な作意、時局への迎合があると思う。つまり純粋な detective fiction ではなく、途中からアクションものに転じたのは、ドイツ人をフィジカルにたたきのめすことで、イギリス国民、とりわけ粗野な愛国心に燃える人々にカタルシスをもたらそうとする意図があったと思われる。フー・マンチューものが黄禍論という偏見のもとに書かれたように、本作はイギリスの敵国への憎しみのもとに書かれた作品である。

以前レビューしたヒュー・ウオルポールの「殺す者と殺される者と」には、ヒトラーの中に帝国主義的イギリスの分身を見る視線があった。それはさほど深遠な認識とはいえないけれど、それでも単純な善悪では割り切ることのできない局面が戦争の中に含まれていることを示しはしている。こういう認識すらない作品は、私は正直、あまり興味がもてない。

最後に、灯火管制とスパイ活動を結び合わせた作品としてJ・B・プリーストレイの Blackout in Gretley をあげておこう。上出来の作品とは思わないが、本書よりもはるかに質が高く、一読して損はない。