2016年7月24日日曜日

71 ハリエット・アッシュブルック 「不道徳殺人事件」

A Most Immoral Murder (1935) by Harriette Ashbrook (1898-1946)

私はユーモアや諧謔に満ち、テンポの速いミステリが好きだが(べつに重厚な作品が嫌いというわけではない)、本編のオフ・ビートなユーモア感覚と、複雑な筋を軽快に展開させる手際は、まさに私の好みである。アッシュブルックなど名前も聞いたことがなかったが、今後は大のお気に入りの作家になるだろう。彼女の作品は十数冊しかないから全部読んでいちばん出来のいいものを翻訳するかもしれない。ジョイス・ポーターやクレイグ・ライスに負けないだけの面白さを持っていると思う。複雑なプロットを構築する腕前は彼らより上かもしれない。

彼女のユーモアはミステリというジャンルそのものに向けられている。
 たとえば銃口から煙が出ているピストルを手に死体を見下ろし、顔には悪鬼のような表情を浮かべている男がいたとする。彼は決して殺人者ではない。(いつかミステリ作家はこの伝統をやぶって第一章で現行犯逮捕された男を真犯人にするだろう。そうしたら誰にも犯人は当てられない)
これを読みながら、そういえばクリスティの作品の中にはそんなのがあったなあ、とか、ノックス神父の十戒を一つ一つ破っている短編小説集があったな、とか、いろいろ感慨にふけってしまった。ミステリに読み慣れた人なら誰でも考えるようなことだけど、しかしアッシュブルックはミステリが黄金時代を迎えている最中にこのコメントを書いていたのである。

こんな一節もある。
 どんな薔薇にも棘がある。
 どんな人生にも雨の降る日がある。
 最上の殺人物語にも退屈な瞬間がやってくる。事実……照合と再照合の詳細……ドアから窓まで、窓から煖炉までの距離……時計が十時を打つのを聞いたのは誰か。
 読者はあきらめて、読みづらい思いに耐えなければならない。それは面白くないが、必要なのである。
作者はこう前置きして事件の細かな事実を語りはじめる。これがモダニズムの影響(ジョイスとかオブライエンとか)なのかどうかはわからないが、とにかくアッシュブルックの書くミステリは、ミステリというジャンルに対して自意識的であり、そこが大きな特徴となっている。

物語の主人公はフィリップ・スパイク、二十九歳。彼はサーク・アイランドに住む裕福な独身男だ。兄貴が地区検事長をしている関係で、警察の仕事を手伝うこともある。仕事は特になく、気まぐれで、いつも暇をもてあましている。彼にはパグという執事がついている。パグは元ボクサーで、ウッドハウスの小説を読みながら執事の仕事のなんたるかを勉強している。

二人はこんな具合にして知り合った。あるときボクシングの試合が行われていたのだが、どちらの選手も慎重で、相手の出方を見るばかり、なかなか打ち合いにならない。観客はいらいらしてきてブーイングの嵐となる。選手は試合を中断して、そんなに文句を言うならリングに上がってこいと挑発する。それに応じて二人の酔っ払いがリングにあがり、選手にぼこぼこにされてしまった。この二人がスパイクとパグなのである。そのとき以来、パグはスパイクの家で執事として働いている。このエピソードから二人がどういう人間か、だいたい見当がつくだろう。

さて事件はある嵐の晩にはじまる。スパイクの家に三十四五歳と思われる女が、全身ずぶぬれ、熱を帯び意識も朦朧とした状態で飛び込んできたのだ。話など聞けるような状態ではなかったので、スパイクとパグと料理女のパーソンズはとりあえず彼女を寝かせ様子を見ることにする。

次の日新聞に大見出しが躍った。プレンティス・クロスリーという著名な切手収集家が銃剣で殺害されたというのである。検事長の兄、警察の警部とともに事件現場を訪れたスパイクは、クロスリーの金庫から貴重な切手が数枚消えていることに気がつく。

しかも嵐の晩、彼の家に迷い込んできた女というのがこの切手収集家の娘であり、彼女はバッグの中に盗まれた切手の一枚を隠し持っていたのである!

読者の頭には途端にあるシナリオが思い浮かぶと思うが、事件はそれほど単純ではない。

私は本編を心から堪能した。唯一あまり納得できなかったのは真犯人の動機である。これを説明するのは、犯人をばらすことになるので控えるが、私は犯人の告白を聞きながら、その心情を理解するには想像力の小さな飛躍が必要だな、と思った。