2016年7月11日月曜日

69 セシル・フリーマン・グレッグ 「バス殺人事件」

The Murder On The Bus (1930) by Cecil Freeman Gregg (1898-?)

一見するとなんのつながりもない、二つの異なる事件が物語の最初で提示され、ところが捜査が進むにつれその関連性が判明してくるというミステリはよくある。本書もその筆法を使っていて、まず最初にガス自殺事件が描かれ、次に二階建てバスの二階で起きた殺人事件が語られる。後者の事件をスコットランド・ヤードのヒギンズ警部が捜査するのだが、やがてその事件の関係者が最初の事件の関係者と重なりはじめ、さらには、自殺と思われた最初の事件がじつは他殺の可能性を帯びてくるという展開である。

ミステリとして滅法面白く、しかも文章もずいぶんうまい。gadetection の説明によると作者はロンドンに生まれ、公認会計士をしていたそうだ。作品はずいぶんたくさんあり、私はこれから手を尽くして彼の作品をかき集めるつもりである。それくらい秀逸なミステリだった。

彼の文章の読みやすさは特筆ものである。ジャンル小説はたいてい大衆向けにかかれるので文章はやさしく読みやすいものが多い。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて盛んに読まれたダイム・ノベルやペニー・ドレッドフルが低学歴の読者を対象にしていることはこのブログでも書いたし、「女子高校生の作文みたい」と称される文章を書くクリスティーは、そうした文章の系列を引く作家である。その一方でチャールズ・ウイリアムズのような難解でごつごつした文章を書く人もいる。ウイリアムズの難解な文章は、形而上学的な主題に切り込む、複雑に屈折した思考のリズムを刻み込んだものだ。難解といえば、ヴァン=ダインのように衒学気取りの文章を書く人もいるが、あれは通常の逆を行くことによってかえって一般読者の気を引こうとする類のものにすぎない。

ちょっと話がそれたが、セシル・フリーマン・グレッグの読みやすさは、事実を単純化することによって得られたものではなく、事実の整理の仕方が抜群に秩序だっていて、その提示の仕方にすきがないことによる。これはヒギンズ警部の推理に典型的にあらわれている。彼は手掛かりをつかむと、そこから考えられることを徹底的に洗い出し、捜査の次の一歩につなげていく。読者が読み飛ばしそうな事実をも(たとえば事件関係者や犯人が書いたとおぼしき手紙、メモに見られるこまかなスペリングの間違いとか)すくいとって、そこから推測されることを綿密に検討していく。この整頓の過程がすばらしく、私は公認会計士の頭の几帳面さがいい具合にこの小説に作用しているのではないかと思った。

それゆえヒギンズ警部の推理は読者をはっとさせたり、うならせたりするようなものではない。それは地味だが、しかし注意深く、手抜かりがない。

もう一点、このミステリで目に付く特徴は、このブログでは何回も書いていることだが、メロドラマを否定しようとしている点である。その傾向をこの作品は顕著にあらわしている。ネタばれになるので書きにくいのだが、最終章から一つ前の章を読むと、無実の若い男女が試練を経て結婚へと至るように読める。これはメロドラマの典型的な終わり方で、くさいことこの上ない書き方をしている。ところが最終章のエピローグを読むとどうだろう。それが見事にひっくり返されている。一九三十年以降に近代的なミステリが成立するには、メロドラマが否定されなければならなかった、あるいは新しいメロドラマが創造されなければならなかったのである。

セシル・フリーマン・グレッグのこの書き方はまだ無骨さを残しているが、しかし本作は gadetection のサイトの著作リストによると第三作目である。彼はごく初期の頃から旧来のミステリとはちがうミステリを書こうとして工夫を凝らしていたのだ。新人作家としてこれは褒めるべきことだろう。私は彼のその後の小説技術に磨きがかかっているかどうか、非常に興味を持っている。