2016年7月15日金曜日

70 グレイス・メイ・ノース 「少女探偵ボブズ」

Bobs, A Girl Detective (1928) by Grace May North (1876-1960)
 
作者は新聞記者をしながら少年少女向けの作品を書いていた人である。あらかじめいっておくとこの作品はほとんどミステリとはいえない。インターネットで情報が得られるようになるまでは、よく洋書輸入業者のカタログを見て、タイトルだけで中身を判断し、実際に注文して手元に届いてから、ぜんぜん予想と違う本だったことに気づく、ということがよくあった。この本も私はタイトルを信じて読み出したのだが、普通の少女小説だったのでがっかりである。しかしせっかく読んだのだからレビューはしておこう。

話の筋はこんな感じだ。ヴァンダーグリフト家はニューイングランドでは指折りの名家であった。ところが父が死に、母が死に、あとには四人の姉妹だけが残された。驚いたことに遺産があるかと思いきや、ほとんどなにもなく、住み慣れたお屋敷もすでに人手に渡っていることが弁護士からの報告でわかった。要するにヴァンダーグリフト家は完全に没落したのである。

四人の姉妹――グロリア、グウエンドリン、ロベルタ(彼女の愛称がボブズ)、レナ・メイ――はニューヨークに出て自活の道を選ぶことになる。まだ二十歳前の彼女たちは、それまでの環境とはまるでちがう、貧しい移民たちが暮らす地区で生活を開始する。最年長で四人の姉妹のお母さん役を演じるグロリアと、最年少で家庭的なレナ・メイは貧民たちの福祉施設で働くことになる。陽気なおてんば娘ロベルタ(ボブズ)は探偵事務所に行って探偵の仕事を得ようとする。グウエンドリンは甘やかされて育ったせいか、そんな生活はいやだと友達のつてを頼ってどこかへ行ってしまう。

四人のなかではロベルタの活躍がもっとも面白いから、彼女のことがいちばん多く描かれる。彼女は探偵事務所から三つの事件の解決に派遣される。最初の事件は古物商で起きた窃盗事件、二つ目の事件は若い娘の失踪事件、三つ目は遺産相続人探しである。ロベルタは事件に取り組む過程でニューヨークのさまざまな人間模様を知ることになるが、しかし彼女が自分の知力・捜査力で事件を解決することはない。彼女の行為がたまたまうまい具合に事件を解決に導いたというだけのことである。しかし探偵事務所の所長は、そうであっても解決したにはちがいない、彼女は与えられた任務をこなしたのである、と心優しく解釈してくれる。

物語は四人姉妹がそれぞれ結婚相手を見つけるところで終わる。

ミステリでないことがわかって、がっかりし、悪口を書くというわけではないが、本書はどうにもうさんくさい。「少女探偵ボブズ」というタイトル自体がミスリーディングなだけではない。作者が主題を扱う態度もいい加減なのである。本書の主題というのは明らかに貧困である。移民たちの貧困、由緒ある名家の一族が没落して陥る貧困である。ちなみに南北戦争以後、暮らしが苦しくなり、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて没落していった旧家はかなりあった。この話の四人の姉妹もそうした例の一つである。しかし彼らはほどなくしてまた裕福な暮らしに戻ることになる。なぜならグウエンドリンとロベルタは金持ちの男と結婚するし、グロリアとレナ・メイの相手は移民で金持ちとはいえないが、しかし彼らが働く福祉施設は莫大な資金的援助を得ることになるからだ。金持ちと結婚するなとは言わないが、それにしてもこの話の展開の安直さには呆然とする。この物語における貧困というのは四人姉妹が一時的にためされる、儀礼的な通過地点に過ぎない。

たしかにこの本には、「移民たちは自由と富を求めてアメリカに来るが、しかしそこで彼らを待っているのは幻滅と貧困であり、ほとんど泥棒のような生活をしながらスラム街に住むしかない」、と書いてある。だが書いてあるだけで、作者がどれだけ真剣にその問題を考えていたかは疑問である。たとえば次のような一節。
 グロリアはある晩、不良の道にはまりこんだ少年を福祉施設のゲーム大会に招いた。そこでずるをせずにゲームすることを教えて彼にしたわれるようになり、また泥棒をはたらいて矯正施設送りになることから彼を救ってやったのである。
こんなに簡単にうまくいくものか。「貧すれば鈍する」という、辞書的な語義ではなく、おそろしい現実的な意味を知らない人間がこんなことをぬけぬけと書くのである。われわれは現在、移民たちが引き起こす犯罪、あるいは移民に対する憎しみの犯罪というものを毎日のように見ている。貧困は貧している者だけではなく、そうでない者の人間性にも深刻な影響を与えるのである。貧困や差別は、安手な理想主義では太刀打ちできないほどの複雑さと厚みと広がりを持った問題なのだ。私は作者は現実的であるように見せかけているが、本気で現実に切り込むつもりはないのだと思う。逆に問題を矮小化しようとする意志ばかりがこの本では目につく。こういう話のことを「子供だまし」というのだ。