2016年4月3日日曜日

50 ファーガス・ヒューム 「忽然とあらわれた女」

The Lady From Nowhere (1900) by Fergus Hume (1859-1932)

ファーガス・ヒュームは「二輪馬車の謎」以外、あまり読まれることはない。世界中どこでもそうである。私はこれが不思議でしかたがない。「二輪馬車の謎」は出だしはすばらしいが、途中からどんどん詰まらないメロドラマになっていく。あの程度のメロドラマなら、たとえば The Secret Passage (1905) のほうがずっと面白い。大量に書かれた彼の作品がほとんど未紹介のまま終わっているのはどうも解せない。

しかし「忽然とあらわれた女」はヒュームとしては不出来な作品ではないだろうか。じつはこの作品はタイトルに惹かれて手に取った。「オードリー夫人の秘密」も「白衣の女」もそうだが、ミステリでは女がどこからともなく忽然とあらわれる。オードリー夫人はその過去を探っていくと、社会という間主観性のネットワークに穿たれた穴から突然あらわれたことが判明する。「白衣の女」では冒頭のほうに、闇の中から女の手が不意にあらわれ、男の肩に触れるという場面があるっが、D. A. ミラーという評論家は、この場面を「白衣の女」の the primal scene だと言っている。どこからともなくあらわれ、男を脅かす女。このパターンは二〇世紀に入っても、たとえばヴェラ・カスパリの「ベデリア」とかウイリアム・アイリッシュの「幻の女」など多くの作品によって反復されている。

本作において、忽然とあらわれた女というのは、金持ちと思わしき年配の婦人である。彼女はほぼ半年おきに借間を変え、ロンドンを転々としている。彼女には三つの奇妙な特徴がある。一つは引っ越しの際に名前を変えることだ。あるときは Ligram 、あるときは Margil 、あるときは Milgar 、あるときは Limrag 、あるときは……。もうおわかりと思うが、どの名前もアナグラムになっている。一つの名前からこんなにいろいろな名前が作れるのかと、私は妙に感心した。

彼女の特徴の二つ目は借間をするとき、「部屋を改装させてほしい、ただし家賃は倍額を払う」と申し出ることである。そしていつも借間を黄色を主調にした豪華な部屋に造り替えてしまう。三つ目の特徴は、やたら占いやら魔術師やらスピリチュアリストと付き合いがあるということだ。彼女は殺されたときもトランプ占いをしていたらしく、死体となった彼女の膝の上にはスペードのエース(死のカード)が載っていた。

先走って言ってしまったけれど、そう、彼女はある晩殺される。彼女を殺した人間は、その直前に彼女とワインを飲んだり煙草を吸ったりしているところを見ると、彼女の知り合いらしい。この不思議な女の殺人事件を担当するのがスコットランド・ヤードの刑事アブサロム・ゲブ、そして彼の探偵術の師匠とも言うべき、しかし今は引退の身の元刑事サイモン・パージである。

二人の刑事の活躍により、この不思議な女の身元が判明する。彼女の本名はエレン・ギルマー(Ellen Gilmar)で、彼女の変名はこの Gilmar のアナグラムだったのである。もう一つ奇怪な事実がわかった。彼女はジョン・カークストーンという貴族の従姉妹で、借間住まいをはじめるまでは彼の屋敷に住んでいた。このジョン・カークストンは二十年前にあやしげな状況のもとに、屋敷の一室で殺害されている。しかも犯人は今もって不明。奇怪な事実というのは、エレン・ギルマンが借間を改造してつくっていた部屋が、ジョン・カークストンが殺された部屋とそっくりだったということだ。

このような設定は非常に面白い。忽然とあらわれた女は反復強迫のように殺人が行われた場所を何度も再現してそこに住み込んでいたわけだ。そして最後には自分もそこで殺される。

しかしながら残念なことに、この精神分析学的なテーマが本書の中で追求されることはない。エレン・ギルマーが黄色い部屋を再現する理由はよくわからないままなのである。私は読み終わってその点が不満だった。小説は理論的な作物とはまるで逆の書き方をしていると思われる向きもあるかもしれないが、しかし小説だって具体的な人間関係や状況の描写を通して問題が提示され、その問題の様々な側面が理論的に物語られていくこともあるのである。いや、良質の作品においては展開されるものなのである。「オードリー夫人の秘密」も「白衣の女」も「ベデリア」もみんなそうだ。だからこそこれらは名作なのである。ついでに言うと、本書でレビューしたエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」もそうだ。私にとってあれは善意とか良心といったものの奇怪な構造をあばいた哲学的な書物である。

「忽然とあらわれた女」はミステリの伝統として引き継がれている一つのトポスを主題にしようとしたのだが、作者の力量不足のせいか、それを十分に発展させることができなかった作品である。また、単に物語としても十分につくりこまれているとはいえない。たとえば刑事のゲブが大追跡の結果ようやくつディーンという男を捕まえたのに、そのあとなんの尋問もせずただ牢屋に入れておくというのはおかしい。ディーンは事件の鍵を握る人物なのだから、まっさきにゲブは彼を取り調べるべきである。どうも本作はヒュームの悪い面があらわれた作品のような気がする。