2016年4月7日木曜日

番外10 「試練――コービット一家に何が起きたのか――」 ネヴィル・シュート

Ordeal (1939) by Nevil Shute (1899-1960)

「試練」は第二次世界大戦が起きたなら、普通の生活を送っている人々の身にどのようなことが起きうるか、ということを小説の形で示したものである。空爆による家の崩壊、ガスや水道や電気といったインフラの壊滅。人々は攻撃対象となる大都市近辺を離れ、田舎に疎開するが、突然大量の人々が移動したために、田舎では食料不足となり、また、劣悪な環境でのキャンプ生活を強いられるため、疫病が発生する。子供がいるコービット一家は、疫病の発生とともに、ヨットでサウサンプトンからワイト島に移動しようとするが、疫病が発生した場所から来たために上陸を許されないのだった。ついに彼らは海軍の協力を得てフランスまで渡ることになる。本書はコービット一家が遭遇するアクチュアルな困難を迫真的に描いた小説である。以下はアマゾンから出版した翻訳書「試練――コービット一家に何が起きたのか――」に付加した後書きである。

作者のネヴィル・シュートは一八九九年、ロンドンに生まれ、エンジニアリング・サイエンスを修めてオクスフォード大学を卒業後、デ・ハビランドやビカースといった航空機メーカーで飛行機の製造に当たっていました。ところが余暇の楽しみとして書いていた小説がなかなかの出来で、一九二六年に「マラザン」という麻薬取引を描いたサスペンス小説を出版してからは、旺盛な創作活動をはじめ、一九六〇年に亡くなるまで中編を含む二十四編の小説を発表しました。

本作は一九三八年に新聞に連載され、翌年ハイネマン社から単行本として刊行されました。イギリスでのタイトルは「コービット一家に何が起きたのか」、アメリカでのタイトルは「試練」となっています。イギリスとアメリカでは読者の好みが違うので、このようにタイトルも違う場合が多いのです。この本が書店に並んだ初日、ARP (Air Raid Precautions) という、空襲から一般人を守るために活動しているイギリスの団体が、一千部あまりも無料でこの本をメンバーに配布したそうです。空爆されると市民生活にどんな影響が出てくるのか、それがリアルに描かれていたからではないでしょうか。

わたしは正直にいって作家としてのネヴィル・シュートをさほど評価していません。どの作品を読んでも登場人物の性格が平板で深みがなく、筋立てがメロドラマじみている。たしかアンソニー・バージェスも同じような不満をどこかで訴えていたような気がします。本書においても主人公のノンポリ的な性格、しかしそれゆえにこそイデオロギー的な性格が、わたしは非常に気になる。ですがシュートには一点、非常な美質があります。技術者が世態人情の描写をこととする小説を書いた、という点からも想像がつくでしょうが、彼は「テクノロジーと日常生活の接点」を描いているのです。文明論的な観点から技術とか科学の問題を扱った文学作品はいくらでも思いつきますが、しかしわたしはシュートの書き方にそれらとは異質なものを感じます。

たとえば爆弾によって下水システムが破壊され、コービットの家の便器にヘドロのような黒い汚水が溜まるという場面を思い出してください。便器というのはわれわれの日常生活においてもっとも卑近・卑俗な物体です。しかし普段われわれは意識していないけれど、便鉢の水が流れて行く先には下水システムという技術が存在している。この小説に描かれた当時の英国の下水は、今の下水とは仕組みが少し違いますが、それでも水圧の調整や汚水処理の技術の上に成り立っていることに変わりはありません。その下水システムが爆弾によって破壊された結果、正常な水圧が保てなくなり、コービット家のトイレに異変が起きる。下水システムが壊されることで、コービットは故障したテクノロジーに直面するわけです。その汚水がゆらゆらと揺れる様を、建設業者のリトルジョンは魅入られたように見つめるのですが、まさに揺れるこの汚水の表面こそが、われわれの日常生活と、普段はわれわれが見逃している技術との接触面ではないでしょうか。わたしは一九三〇年代に、こんな卑近なレベルから、日常とテクノロジーの接点を描いた作家をほかに知りません。

コービットと医者のゴードンが交わす会話も、人間と技術の関わりという点で興味深い。コービットは、戦争が起きたら人はすぐに軍に入って戦うものだと思っていたと言います。それに対してゴードンは「それは古い考え方だよ。戦争が新しくなれば……この戦争はまさに新しい戦争だ……それとともにわれわれの状況も新しくなり、古い考えは通用しなくなる。われわれは新しい考え方を自分でつくり出し、最善を尽くさなければならない。昔の赤い軍服を捨てて、あらたにカーキ色の軍服をつくらなければならない」と言います。戦争というのは、第一次世界大戦以降、技術の戦いに他なりません。ゴードンが言う「戦争」は「技術」という言葉に置き換えてもいい。すなわち、彼は、新しい技術に直面したら、われわれの古い考えは通用しなくなる。新しい考え方をつくり出し、最前の対処をしなければならない、ということを言っているのです。これは遺伝子工学や人工知能といった新しい技術に翻弄されているわれわれには常識と言えるような考え方ですが(だからといって、新しいテクノロジーが登場するごとに、われわれがそれに適切に対処しているとは到底言い難いのですが)、しかしそれを一九三〇年代にすでに表明していたシュートは、やはりさすがだなと思います。

これに対してテクノロジーの問題をもっとも考えていそうな軍人のほうが、その重要性を無視しているのですね。コービットの親友である空軍の大尉は新型の武器の効力を否定して「戦争というのは銃剣を握って、みずからの足で歩くほうが勝つのだ」などと昔の日本軍の精神論とさして変わらないことを言うのですが、第二次大戦が原爆という最新テクノロジーによって終結したことを知っているわれわれにはとても諾うことができない言葉です。福島の原発事故の時にも明らかになったことですが、テクノロジーを使い、その恐ろしさや効力をいちばん知らなければならない人々が、じつはそれらにいちばん鈍感であり、あるいはそれらに盲目的である、ということなのかもしれません。

新しい「戦争=テクノロジー」に直面し、それに十分対応できない旧来の社会は、家族を守る上で頼りにならないと判断し、コービットはみずからテクノロジーと生活が触れあう境界面、便鉢の中で揺れる黒い水面、海を渡ろうとします。本作は、技術者兼作家としての作者の問題意識を実によくあらわした作品になっていると思います。