2016年4月14日木曜日

52 パトリシア・ウエントワース 「アンナ、どこにいるの」

Anna, Where Are You? (1953) by Patricia Wentworth (1878-1961)

このブログでは何度も書いていることだが、ミステリの歴史において一九三〇年代は一つの分水嶺を形づくっている。近代的なミステリの型ができあがるのがこの時期なのである。それ以前の作品は総じて一九世紀的なメロドラマ、あるいはセンセーション・ノベルの影響を色濃く残している。

もちろんこれは大きな流れを見た場合であって、個々の作品にあたるなら、昔書かれた作品でも新しい感覚を持っているものもあるし(「ノッティングヒルの怪事件」とか)、一九三〇年代以降に書かれていても、古さを漂わせているものもある。

パトリシア・ウエントワースの本作は後者のよい例である。あからさまなメロドラマになっているわけではないけれど、ピーター・ブランドンとトマシーナ・エリオットの恋模様は、明らかにジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を思い起こさせる。

さらに本書の探偵役であるミス・シルバー、編み物が大好きなこの老婦人とその部屋は、フランク・アボット刑事にヴィクトリア朝を想起させる。
ミス・シルバーの部屋はなんと居心地がよく、心休まる場所なのだろうと、刑事は思った。流行遅れの家具は爆撃機や爆弾に煩わされなかった時代のことを思い出させた。安心感――それこそヴィクトリア朝の人々が持っていたものだ。もちろんおそらく彼らはそのために大きな代価を支払っていただろう。あの時代にはスラムがあり、児童労働があり、文化は一握りの人々のものでしかなかった。しかしすくなくともあの頃の子供たちは、夜中にベッドから引きずり出され、地下壕に避難したり、スラムが爆弾で粉々にされることはなかった。
あるいはこうも書いている。
煖炉の反対側から彼に向かって笑顔を見せながら、ミス・シルバーは忙しく編み物の手を動かした。彼女は不安定な世界にあって動くことのない一点であった。神を愛せ、女王を頌えよ、法律を守れ、他人に親切を施せ、善良であれ、自分のことよりも他人のことを考えよ、正義のために力を尽くせ、真実を語れ。こうした素朴な信条のもとに彼女は生きていた。もしすべてがそうであったなら。
私はこの作品を読みながら、その背後に古き良き時代への郷愁を強く感じた。べつに郷愁自体は悪くないし、作中人物が過去への憧憬を語ることにはなんの問題もない。なにしろみんな庭に地下壕を掘り、周囲で爆弾が炸裂する中、夜を過ごすこともあった時代の話なのだから。しかし作者自身がその郷愁におぼれてしまうことは危険である。過去を美化するのはイデオロギーに囚われることであり、作家が持つべき想像力を棄てることにほかならない。どうもパトリシア・ウエントワースはこの作品においてその弊に陥ってはいないだろうか。ほかの作品も読んで確認しなければならないけれども、彼女にはそんな傾向(凡庸さ)があるような気がする。

われわれの世界は単純な信条では割り切れない世界である。現在、先進国はテロと戦うなどと言っているが、しかしテロを生んでいるものは先進国のエゴなのである。すくなくともその程度の複雑さを認識するだけの力がなければ、作家は世界を描けない。そして作家というものは、単純な信条で生きていくことができたとされる時代においても、やはり世界はそれ相当の複雑さを秘めていたのではないかと、想像力を働かせて考えるべきなのである。

本編の出だしの部分を簡単にまとめておく。家庭教師のアンナ・ボールはディープ・エンドと呼ばれる僻地の邸に住み込むことになるが、ここの主人が非常に変わり者で、子供を徹底した放任主義で育てている。叱りつけることは、子供の精神をたわめることだ、として、一切を彼らの好きなようにさせているのだ。おかげで子供たちは暴れ放題、まるで自然児か野蛮人みたいな状態である。母親は気が弱く、病気がちで、しつけなどまるできない。アンナ・ボールは子供たちに手を焼き、とうとう二週間後に邸を出て行く。ところがその後彼女は完全に消息を絶つのだ。かくして警察、およびミス・シルバーが捜査に乗り出す。そこでわかってきたのはこの失踪事件と、近くの町で起きた銀行強盗事件がなんらかの関係を持っているらしいということだった。

この作品の面白いところは、ミス・シルバーが単なる安楽椅子探偵ではないという点である。彼女はアンナ・ボールの捜索のために、みずから家庭教師としてディープ・エンドのお屋敷に入り込む。彼女はもと教師であったから、この役は彼女にうってつけなのだが、しかし実に元気なおばあちゃんで、この行動力には感服する。