2015年12月30日水曜日

32 ヒュー・ウオルポール 「殺す者と殺される者と」 

The Killer and the Slain (1942) by Hugh Walpole (1884-1941)

ジョン・オウジアス・タルボットはおとなしくて痩せていて、内気で自意識の強い少年だった。彼にとってジェムズ・オリファント・タンスタルは天敵だった。タンスタルはいつもタルボットにつきまとい、からかい、いじめるのである。学校を出てからタルボットは父の骨董屋を受け継ぎ、ギッシング風の深刻な小説を書くようになる。そしてイヴという女性と出会い結婚する。

そこへ彼の天敵タンスタルが再びあらわれる。彼は画家として成功し、懐にはたんまりと金がある。肥っていて、会話がうまく、女性にもて、ありとあらゆる意味でタルボットとは正反対だ。にもかかわらず彼はタルボットにつきまとい、彼をいちばんの親友だといいふらす。タルボットは相変わらずいやみを言われたり、からかわれているような気がしてタンスタルを忌み嫌う。しかもタンスタルはタルボットの妻イヴといやになれなれしくし、イヴもタンスタルに好意を寄せているような素振りを見せるのだ。

タルボットは追い詰められたような気分になってついにタンスタルを殺す。崖から海へ彼を突き落としたのである。

ここから奇妙なことが起きはじめる。タンスタルを殺しタルボットはせいせいした気分になるのだが、次第に彼はタンスタルに似てくるのである。体重が増え、女好きになり、酒を飲み、絵を描く才能があることに気づき、小説を書くのはやめてしまう。さらにタンスタルが自分の心の中に入り込んだかのように、彼の過去を知ることができ、彼の声が聞こえるようになる。

そう、これはドッペルゲンガーの物語である。二人の登場人物のイニシャルがいずれもJ.O.T.であることにお気づきだろうか。二人は正反対の性格を持ちつつも、じつは一人の人間なのだ。

この作品が単なる分身譚で終わっていないのは、そこに歴史的・政治的な側面が付加されているからだ。すなわちイギリスとドイツの関係がタルボットがタンスタルとの関係に重ねられているのである。タルボットの心が殺したタンスタルの心に乗っ取られはじめた頃、彼はイギリスの人々がヒトラーを非難するする場面にでくわす。
 二人の老人がすべてはヒトラーの責任だ、あれは何という悪魔的な男だろう、いったいいつになったら誰かが勇気を奮い起こし、あいつの悪逆非道な振る舞いを阻止するのだろうとしゃべっていた。彼らはおそろしくいきりたっていて、ご婦人の白髪頭が絶えず震え、老紳士の手の甲には大きな茶色いいぼが見えたことをわたし(=語り手のタルボット)は覚えている。ほんのしばらく前ならわたしはどれだけ快く彼らに同意を示しただろう。しかしその目の前に置かれたパイに不信の目を向けていたわたしは(そのホテルは高級ホテルではなかった)とっさにかっとなってこう思ったのだ。「ヒトラーが自分の国のために最善を尽くしてなにが悪い? ドイツは国土を拡大しなければならないんだ。それなのにみんながそうさせまいとする。ヒトラーは偉大な男だ……」チキンを食べると胸が詰まりそうになった。わたしはナイフとフォークを置き、ひどい飾り付けの食堂を見渡した。いったいわたしはどうなったのだろう。残酷でサディスティックな乱暴者の一味には罪はないと考える男、これがわたしなのだろうか。もしもわたしでないなら、誰なのか。
「ヒトラーは偉大な男だ」というのはもちろん内面化したタンスタルの声である。別の箇所ではこうも述べている。
わたしはこの国は偽善者の国だと言った。ドイツが国土を拡張しようとしているのなら、われわれにそれを止める権利などない。イギリスは地球の半分以上を手にしている。どうやってそれを手に入れたんだ? 現地の人々から略奪したり、泥棒したり、彼らを痛めつけたりしてだ。
以前タルボットがタンスタルを悪魔的だと考えたように、イギリス人はヒトラーを悪魔的だと考えている。しかしここに明確に指摘されているが、イギリスだってヴィクトリア朝時代から植民地を拡大して繁栄してきたのだ。ヒトラーを批判するのは偽善的である。本当はイギリスとドイツはよく似ているのだ。イギリスはかつての自分の姿をドイツに見てそれを批判しているのである。そう言う意味でこの不気味な物語は政治的なサタイアでもある。

本作はタルボットによって語られるのだが、性格の移行がじつに自然に描かれ、間然するところがない。わたしが読んだウオルポールの作品の中ではいちばんの出来だと思う。