2015年12月19日土曜日

30 メアリ・ロバーツ・ラインハート 「寝台席十番下段の男」 

The Man in Lower Ten (1909) by Mary Roberts Rinehart (1876-1958)

 以前紹介したクリストファー・モーリーの「幽霊書店」にはこんな一節がある。
もちろん夜は文学と神秘的な類縁性を持っている。イヌイットが偉大な書物を生み出していないのは奇怪なことだ。われわれのほとんどは北極の夜などオー・ヘンリーとスティーブンソンがなければ耐えられないだろう。また、いっときアンブローズ・ビアスにかぶれたロジャー・ミフリンはこういったこともある。「真に甘美な夜」(ノクテス・アムブロジアナエ)は、アンブローズ・ビアスの夜である、と。
私は今まで読んできた本を思い出しながら、もっとも魅力的な夜を描いた作品、作家は誰だろうとときどき考える。そのときラインハートとその作品は、そのリストに必ず登場することになる。なにしろ闇の中の不可思議なうごめきを描かせれば彼女の右に出るものは――ま、いることはいるが、ミステリの歴史の中では彼女は独特の位置を占めていると思う。その闇は、ときには人間の心の内奥に通じる闇ともなる。

本編の主人公は弁護士をしている若者ローレンス・ブレイクリー。今まで女には興味がないという人生を送ってきたが、本編においてはもちろん恋に陥る。しかもその相手は、彼が一緒に弁護士事務所を経営しているマクナイトの恋人だ。

ブレイクリーは寝台列車の中で殺人事件に出くわすのだが、これがちょっとややこしい。ミステリによくある配置のずれが起きるからだ。ブレイクリーはまず十番下段の寝台席を購入する。ところが列車に乗ってみると、十番下段にはもう誰かが酔っ払ってグウグウいびきをかいて寝ているのだ。車掌に文句を言うと「たぶん中央通路を隔てた九番のお客さんが間違ってこっちに来たのでしょう。どうぞ九番を使ってください」という指示。ブレイクリーは九番で寝るのだが、寝つかれずにしばらく外に出てあたりをぶらぶらし、また寝台車に戻ってきて寝た。

さて次の日の朝目が覚めると、なんと彼は寝台席七番で寝ているではないか。しかも九番の席を見ると、自分の服と裁判に使う大事な書類を入れた鞄がなくなっている。それだけではない。十番の寝台席にいた男が胸を刺されて殺され、凶器と思われる針が七番の枕の下から発見されたのである!

ブレイクリーは殺人の容疑をかけられるのだが、事件はそれだけでは終わらない。この列車が事故を起こし、ブレイクリーはあやうく助かったものの、片腕を骨折してしまった。このとき彼を助け、一緒に事故現場からボルチモアまでついて行ったのがアリソン・ウエストという美しい女性で、これが先ほどいったマクナイトの恋人なのである。

出だしはこういう具合なのだが、この作品は謎めいていて、サスペンスを感じさせるだけではない。ブレイクリーが語るこの物語にはふんだんにユーモアが詰め込まれている。ブレイクリーも共同経営者のマクナイトもともに若くて威勢がよく、とりわけマクナイトは冗談を言うのが好きな性格なので、二人の会話はいつも溌剌としていて諧謔味を帯びている。
 マクナイト「日曜はリッチモンドに行かなきゃならないんだ。デートがあるんだよ」
 ブレイクリー「ああ、そうかい。彼女の名前は何だったっけ。ノースさん? サウスさん?」
 マクナイト「ウエストだ。へたな冗談を言うな」
さらに事故を起こした列車にはエドガ・アラン・ポーに心酔している素人探偵が乗っていて、これが事件に興味を持ち、ブレイクリーに話しかけてはメモを取る。彼はなかなか鋭い推理を展開するが、ブレイクリーはいつもそれに茶々を入れ、素人探偵はお約束のように憮然とした表情になる。

また殺人事件の容疑者であるブレイクリーは警察から見張りをつけられる。あるときブレイクリーとマクナイトがタクシーに乗っていると、後ろから見張りが走って車を追いかけているではないか。マクナイトは運転手に言う。「いちばんどろんこの道を探して、そこを通っていってくれ」その後ブレイクリーとマクナイトがレストランで食事をしていると、ブーツを泥だらけにした見張りがうらめしそうに入ってくる……。

このように全体に喜劇的なトーンが敷かれているから、暗闇の場面がある種の異質性をもって、いっそう恐ろしく描かれることになる。そのスリリングな描写は「螺旋階段」や拙訳「見えない光景」で確認してほしい。