2016年1月3日日曜日

33 アーサー・M・チェイス 「殺しの二十分」

Twenty Minutes To Kill (1936) by Arthur M. Chase (1873-?)

ニューヨークのペントハウスに大金持ちたちが集まってディナーを味わっている。その席でパーティーの主人がこんなことを言う。失業者が出るのは人口が増えたからだ。この国には人が多すぎる。このままじゃいつまでも失業がつづく。生活保護を受けている連中を二千万人ほどグランドキャニオンに集めて毒ガスを浴びせれば、残りの八千万か九千万の人間は助かるんだ。死んだ人には気の毒だが、そうすればみんなに仕事が行き渡り、失業者を援助するための巨大な予算は必要なくなる。この国からおもしが取り除けられ、景気はよくなり、われわれはまた前進してゆける。非情なようだが、しかしそれが自然というものだ。適者生存。マルサスの原理だ。

本書の出だしのほうにはこんなことが書いてあるのだ。

私はこれを読んでかっとなった。何をいい気なことを言ってやがる。労働者を殺す必要はない。人口のたった一パーセント、つまりおまえたちを殺せばいいだけだ。

このディナー・パーティーに参加し、一人だけほかの連中から距離を置いている老婦人ミス・タウンゼントは、パーティーの主人ティルデンを「一度も仕事をしたことがないのね。遊んで暮らしてきただけ。見かけ通りの、骨の髄までひ弱な男だわ」と考える。

これだけで私はミス・タウンズエンドの味方についた。この殺人物語でどんなことが起きようとミス・タウンゼントだけは決して犯人ではない。もしも犯人だったらこの作者はミステリの風上にも置けない不心得者である。

そんなふうにぷんぷんしながら第一章を読み終わったと思ったら、いつの間にかダイニングルームに三人組の強盗が登場し、拳銃をつきつけて彼らから宝飾品を奪っていく。私は小説を通してしか、この時期のアメリカのことは知らないが、どうやら金持ちはホテル並みの高級アパートに住んでいることが多いようだ。ペントハウスというのは、その中でも最上階に位置する超贅沢な住居である。エレベーターにはちゃんとエレベータ・ボーイがついていて、一階にはロビーやら受付もついていることがある。そんな立派なアパートに強盗が忍び込むとはびっくりである。彼らは部屋の明かりを消し、動くなよと脅しをかけ、さらにティルデンに向かって二発ほど銃を発射してすみやかに出ていく。

しばらくしてから明かりをつけると、ティルデンがテーブルにうつむけに倒れている。幸いなことに弾はティルデンをかすっただけだった。彼は気絶していただけなのである。しかしティルデンは運がない。警察を呼び、パーティーのゲストや使用人たちががやがやと話をしているあいだに、彼は今度は本当に殺されてしまったのだ。彼は首の後ろを突き刺されて、バスルームに倒れていた。強盗たちはとっくに逃げてしまっていたから、犯人はゲストか使用人たちの中にいることになる。

事件を解決するのはダーキン警部補とミス・タウンゼントのコンビである。じつは彼らは以前も二人で別の事件を解決しているらしい。ミス・タウンズエンドに対するダーキン警部補の信頼ぶりは相当なものである。これを知って私はほっとし、また当然だろうという気がした。ミス・タウンゼントのような良識ある人間が、かりにも容疑者扱いされるわけがない。しかもこのオールド・ミスの冷静な判断力と、緻密な観察力は仕事熱心なダーキン警部補のそれを上回るようだ。私はまっさきに感情移入した人物が物語のかなめの位置にいることを知り大満足である。

本作はミステリとしては凡作だろう。特にめざましい推理が展開されるわけでもないし、謎もそれほど魅力的ではない。軽量級の、ひまつぶし向けの本というのが私の読後感である。ただ文章は完全に現代的な英語になっていて、会話が多く、やけに読みやすい。とりわけ金持ちの中の一人、ミス・リンダ・リー・テンプル・セイボールド・マクナット・ショーのしゃべり方はよく特徴があらわれている。この女はもともとは安いレストランでウエイトレスをしていたのだが、次々と金持ちと結婚し、その未亡人となり、大金持ちになったのである。彼女の名前は今は亡き亭主たちの名前をずらずら連ねたものだ。ど派手な宝石を身につけ気取っているが、根はがらっぱちな女である。それが教育あるミス・タウンゼントやダーキン警部補の英語と奇妙な対照をなしていて思わず笑ってしまった。