2015年12月16日水曜日

29 デーナ・チェンバーズ 「稲妻の如く」

Too Like the Lightening (1939) by Dana Chambers (1895-1946)

以前、ルイス・トリンブルの「殺人騒動」をレビューしたとき、粗筋が書きにくくて仕方がないと悲鳴をあげたことがある。奇妙な事件が次から次へと起きるのだが、なぜそんな事件が起きるのか、語り手にはさっぱりわからない。読者のほうも宇宙空間をふわふわ浮いているように、どっちが上とも、どっちが下ともわからないまま、物語の流れに従っていくしかない。事件の輪郭が多少なりとも判然とするのは、その物語の後半以降のことである。もちろん後半になってはじめてわかる事実をばらせば、わかりやすく粗筋を示すことができるのだが、それではこれから読む人の興味をそぐことおびただしい。そこで文才のない私は悩んでしまったというわけである。

「稲妻の如く」はスパイ小説といっていいだろうが、やはり粗筋が書きにくい作品である。語り手であり主人公でもあるジム・スティールはいきなり奇妙な状況に放り込まれ、そして事情もわからぬまま次々と行動をしていかなければならない。

彼はある朝目を覚ますと、見知らぬ部屋にいることに気がつく。隣には北欧の人間とおぼしき美女が横たわっている。なぜ自分はこんなところにいるのか、彼は必死になって昨晩の出来事を思い出そうとする。彼はある程度思い出すのだが、しかし彼の記憶には埋めることのできない欠落がある。

そのあと彼は男の屍体を木にぶら下げ(どうやら彼が殺したらしい)、一緒に寝ていた女の父親に出会い、その父親は直後に爆弾によって吹き飛ばされ……。読者は何が何だかよくわからないうちに、暴力的なアクションが展開する物語の中に引きずり込まれる。

ごくおおざっぱに種を明かせば、ジム・スティールはアメリカと連合国側のスパイ合戦に巻き込まれたのである。しかもこのスパイたちは二重スパイであるため、彼はまことに複雑な謀略の手先として利用されることになったのだ。

ジム・スティールは最初、彼が漂う空間を眺め、こっちが上になるのだろうと勝手に思い込む。ところが物語の中ほどで、最愛の妻と再会し、その時から今まで上だと思っていた方向が、実は下であることに気がつく。妻との信頼関係がジャイロスコープのように彼に正しい方向を示したのである。

本書や「殺人騒動」のように、何が起きているのかわからない物語というのは、近代的なミステリの誕生と共にあらわれた。それまでは「世界は語られうるし、理解されうる」という信念のもとに物語が書かれていたのだが、ある時期からそのような信念がゆらぎだしたのである。たとえば本編では個人(ジム・スティール)と国家が対立している。もちろん国家は圧倒的な量の情報を所有し、またそれを操作する能力を持っている。個人が国家の企みを見抜くのはほとんど不可能に近い。こうした無力が問題となるのは、ミステリの世界に限らず、文学の世界でもそうだ。カフカの作品はその典型例だし、ちょっと面白い日本文学の例としては古山高麗雄の「半ちく半助捕物ばなし」なども挙げられる。私は一九三〇年代に古いタイプの探偵物語は近代的ミステリに変貌したと書いたことがあるが、その背後にはフィクションに対する認識の変化がある。もっとも大衆向けのミステリにおいては、最愛の妻との出会いが主人公に正しい認識の方向性を教え(なんと俗受けのするロマンチックな書き方だろう)、最後にはすべてをきれいに説明してしまうのが普通だけれど。

本書は第二次大戦前の国際状況を踏まえて書かれているが、しかしまるで古びた感じがしないのには驚いた。現代のスパイ小説のレベルからいっても、充分標準はこえている。ただ不満があるとしたら、この小説には余韻がないことだ。サマセット・モームのアッシェンデンのシリーズ、エリック・アンブラーの一連の作品、ジョン・ル・カレやグレアム・グリーンの現代的スパイ小説、これらはどれも独特の余韻を残す。「稲妻の如く」は残念ながらそういう渋い味わいを持っていない。文体もパルプ小説的で、スカッとした気分で読み終わり、忘れることができるような作品、つまり消費されてしまう作品だ。

最後にタイトルについて一言いっておこう。「稲妻の如く」という句は「ロミオとジュリエット」の有名なバルコニーの場面から取られている。ジュリエットがロミオにこんなことを言っている。「愛の誓いは、どうぞおよしになって。嬉しいけれども、今晩約束を交わすのは、いや。そんなの、いくらなんでも軽はずみすぎる。あせりすぎというものよ。稲妻のようにひかったと思ったら、『ひかった』と言う前に消えてしまう」本書では事件が立てつづけに起き、主人公が「これじゃ考える暇もない」と独りごちる場面でこの一句が使われている。事件の推移が「稲妻のように」すばやいという意味である。