2015年10月28日水曜日

18 R.A.J.ウオーリング 「奇怪な目をした死体」 

The Corpse With the Eerie Eye (1942) by R. A. J. Walling (1869-1949)

タイトルの「奇怪な目」というのは、殺された男の瞳孔が収縮していて点のようになっていたことを指している。それだけでピンと来る人もあるだろうが、彼は殺される前に薬物を服用させられていたのである。

物語はイギリスのキャッスル=ディナスという小さな町を舞台に展開する。ここにローウェルという金持ちの一家が住んでいた。父と母と娘の三人家族で、娘のキャサリンはブルース・ジャーディーンという若者と結婚することになっていた。

キャサンリンとジャーディーンの交際がつづいているときに、アンソニー・ベレズフォードという男がこの町に移り住んできた。今まで世界をあちこち旅していたようだが、彼は過去を忘れたいと自分の生い立ちについては多くを語りたがらず、人々からは「謎の男」を呼ばれるようになる。

この男が町に来てから、ローウェル一家の様子がおかしくなる。そのことにいちばん敏感に気づいたのは娘のフィアンセのジャーディーンだ。キャサリンの父母は急にむっつりと話をしなくなり、キャサリンももうジャーディーンのことなど眼中にないような態度を取る。結婚が反故になりはしないかと不安になったジャーディーンはまわりの人と相談の結果、秘密を探らせるならこの男の右に出るものはないといわれる、探偵のトールフリーを呼ぶことにする。

探偵のトールフリーは、ローウェル一家と、謎の男ベレズフォードのあいだには何らかの関係が隠されていると考える。極端にナイーブな性格のジャーディーンにはそれがわからないようだけれど、ローウェルの友人たち、たとえばローウェル夫人の兄であるマッパーレイ博士などはかなり詳しく事情を知っているようだ。しかしローウェル一家はもちろん、マッパーレイ博士も、探偵のトールフリーになにも説明しようとしない。

そんなときにベレズフォードが死体となって発見された。発見したのはトールフリーとジャーディーンである。トールフリーはこのとき死体を見て、その目が点のようになっていることに気づくのだ。

この作品では、殺人がどこで、いつごろ行われたかということは、ほぼ確実にわかっている。また殺された男がローウェル一家を脅迫していたことも、マッパーレイ博士らが事件に大きく関与していることもわかっている。しかしいくらトールフリーが尋ねても、ローウェル一家とその関係者たちは、スキャンダルを怖れて一切の事実を口にしない。警察の捜査にも非協力的で、スコットランド・ヤードが乗り出してきて、ローウェル一家を威嚇するように尋問しても固く口を閉ざしたままなのだ。それどころかいろいろと細工をして捜査を攪乱させようとまでする。

探偵のトールフリーは数少ない手掛かりを頼りにローウェル一家と殺された男の接点を探り、かつまた捜査を攪乱するための工作を鋭い洞察力で見破っていく。

この作品を読んで二つの点が印象に残った。一つは探偵の優しさである。新聞ネタ、週刊誌ネタになることを怖れて事件のもみ消しをはかるというのはよくあることだが、それにしてもマッパーレイ博士らの隠蔽工作はいささかえげつない。にもかかわらずトールフリーはジャーディーンやローウェル一家の心情を察して、スキャンダルが表沙汰にならないような形で事件を解決しようとするのだ。彼自身も上流階級に属するから、彼らの気持ちがよくわかるのであろう。そして実際事件は、偶然の力も大きく作用して、「戸棚の中の骸骨」をさらすことなくスコットランド・ヤードによって一応の解決を見る。しかもイギリスはヒトラーに最後通牒を出し、新聞はもう地方のスキャンダルなどには目もくれない情勢になるのだ。

二つ目は警察の優秀さに対する認識が見られることだ。物語の最後でローウェル一家とその関係者たちは、自分たちに疑いの目を向けていたスコットランド・ヤードが別の人間(真犯人)に注目するようになりほっと胸をなで下ろす。しかしスコットランド・ヤードは、彼らが犯罪に関わっていたことをちゃんと突き止めていたのである。頭のいいマッパーレイ博士がどれほど巧妙な工作をしても、スコットランド・ヤードには通用しなかった。地元の警察ですら、ある部分においては、探偵のトールフリーと同じか、それ以上の捜査能力を発揮するのである。トールフリーもそれを見て、警察の力をみくびってはいけないと何度も言っている。なるほど真実を完全に把握したのはトールフリーのほうが先かもしれないが、スコットランド・ヤードも負けてはいないのだ。まことに官僚機構の情報収集能力・情報処理能力は怖ろしい。たったひとつの指紋から芋づる式にありとあらゆる情報が引き出されるようでは、神の如き英知を持つ私立探偵も出番がなくなるではないか。

第二次世界大戦から冷戦へとつづく歴史の流れの中で、エリック・アンブラーやヘレン・マッキネスなどによってすぐれたスパイ小説が書かれるようになるが、われわれはこのあたりから国家の情報ハンドリング能力の優秀さに目覚めはじめたのかもしれない。