2015年10月24日土曜日

17 ハーバート・アダムズ 「ユダの接吻」 

The Judas Kiss (1955) by Herbert Adams (1874--1958)

上等なミステリが与える快楽は、subversive な快楽である。もっとも犯人とは思えない人間が、演繹的な論理によって犯人であることが決定的に証明される。本来なら両立し得ない反対物が、同一のものとして提示されることくらい subversive な事態はないだろう。

これは十九世紀半ばに発表された「オードリー夫人の秘密」から延々と伝承されてきたミステリ小説の特徴である。「オードリー夫人の秘密」においては、まさしく「家庭の天使」、つまりヴィクトリア朝時代に理想とされた婦徳を有する女性が、殺人を犯すことも怖れぬ毒婦であったことが暴露される。作者のメアリ・ブラッドンは、「家庭の天使」とその反対物が同時に存在しうることを示すことで、前者の観念にはある種のひびが走っていることを明らかにした。

さて本編「ユダの接吻」だが、この最終章ではある登場人物が事件を振り返って次のような教訓を垂れている。

 多くの女性は「自分の人生なんだもの、好きなことをしたっていいはずだわ」と思っている。それは間違いだわ。彼らはその間違った人生を他の人に引き継がせてしまう。彼らに子供があったら、なんとも不思議な具合に彼らの悪の種が子供に植えつけられてしまうのよ。そういうことがわかれば彼らも自分の行いに気をつけるようになるんでしょうけど。

なんとも道徳的で保守的な台詞だが、「ユダの接吻」はこういう教訓にふさわしい、subversive なところなど微塵もない、いかにも犯人らしい犯人が最後に捕まる物語である。これはミステリではなくて、あくまで教訓談として読むべきものだろう。それもあまり質のよくない教訓談として。ついでにいうと「ユダの接吻」というタイトルは聖書から取られている。

しかし前半部分、人々の非道徳的振る舞いが次々と明らかにされるところは読んでいて面白い。事件はイングランド東部のサフォーク州ベックフォードという村で起きる。ここにマイケルモアという一家が住んでいる。母親は亡くなり、父親は放浪の旅に出かけ、家にいるのは四人の子供たちだけである。しかし子供といってももう二十代のいい大人だ。彼らはガーネット(長男 牧師)、ジャスパー(次男 画家)、エメラルド(長女 作家)、パール(次女)とすべて宝石の名前がつけられている。そこに父親のジョージがフランスのサン=マロから、なんと新しいお嫁さんを連れて帰ってくるのだ。しかも子供たちとほとんど年の変わらないフランス美人である。

これはなんとも気まずい状況である。父親は年若い、美しい嫁さんを得てご満悦だろうが、子供からすれば継母とどう接すればいいのか、その距離の取り方が難しい。いちばん年下のパールは新しい母親に好意を寄せ、画家のジャスパーはさっそく彼女にモデルになってもらい、父親の目を盗んで彼女に手を出そうとしたりする。しかし長男と長女はよそよそしい態度を取る。

父親は新婚生活を長く楽しむことができなかった。あっけなく交通事故で死んでしまったからである。この作品が面白くなるのはここからだ。まず父親の遺書が読み上げられた。それによると財産はすべて新しい妻に与えられることになる。子供たちは結婚するときに五千ポンドを与えられる。ただしその結婚は新しい妻が承認するものでなければならない。

もちろん子供たちは不満だろう。自分たちとおなじ年齢の女に自分たちの財産を押さえられているようなものだから。子供たちと新しい母親は激しく対立する。

そんなときに画家のジャスパーは自分の絵を売りに、父親と継母が結婚式をあげたというフランスのサン=マロへ行き、偶然にも二人が正式な結婚をしていないことを知る。髪結いの奥さんだった女を、父親が略奪してイギリスに連れてきただけなのだ。ジャスパーは髪結いの亭主に会い、彼が持っている奥さんの写真を見て、それが父親の新しい妻と同一人物であることを確認する。

ジャスパーが家に帰ってから子供たちはその事実を母親に突きつけるのだが、やりこめられた母親のほうも反撃に出る。彼女は子供たちにむかって、父親は最初の妻とも正式には結婚していなかったのだ、あなたがたは不義の子供たちなのである、と父親本人から聞いた秘密をぶちまけたのだ。

不道徳な私はこれを読んで手を打って喜んでしまった。なるほど、このおやじ、二回とも正式な結婚をしていなかったのか。しかしそれでよくばれなかったものだ。子供が生まれたときに届け出とかしなくてもよかったのだろうか。そういえば、Fear Stalks the Village の中にも正式な結婚をしていない夫婦が出てきたな。二十世紀前半のイギリスではそういうことがままあったのかな……。などと、いろいろなことを考えて愉しんだ。

このあとは母親が毒殺され、さあ、犯人は誰だ、ということになるのだが、最初に述べたようにこの部分はもう私にとってはどうでもいい。