2015年10月14日水曜日

番外3 エリック・ナイト 「黒に賭ければ赤が」

You Play the Black and the Red Comes Up (1938) by Eric Knight (1897-1943)

アマゾンから出版


エリック・ナイトは「名犬ラッシー」の作者として知られているが、犯罪小説も一作書いている。それが本編で、ノワール文学の初期の傑作である。

1 あらすじ

オクラホマの炭鉱町の精錬所ではたらく「おれ」がある日勤務を終えて帰ってみるとレストランで働いているはずの妻がいなくなっていた。妻は夫の意地の悪さに嫌気がさして、とうとう一人息子を連れてハリウッドに逃げ出したのだ。

妻と息子を呼び戻そうと「おれ」は汽車で西海岸へ行く。着いてからは思いも寄らない冒険の連続だった。ハリウッドの大物映画監督ジェンターに出遭い、妻と接触しようとして失敗し警察に追われる。一文無しで腹を空かせていた「おれ」はチンピラから狂言強盗の相棒をつとめる話をもちかけられ、思わず乗ってしまう。しかし狂言はうまく行かず、「おれ」はふたたび警察に追われ、メイミとパットという二人の女性にかくまわれる。メイミとパットは一緒に住んでいたのだが、パットが出て行き、「おれ」はメイミと同棲生活をはじめる。

パットはこの作品で非常に大きな役割を果たす。彼女は映画監督ジェンターの支援を受けて半政治的、半宗教的団体エカナノミック・パーティーなるものを立ち上げるからである。「おれ」の感覚からすると、これはおよそ非現実的な政策を掲げた団体である。その核となる政策とは次のような単純なものだ。まず最初の週にすべての人に五ドルをわたす。ただし一週間以内に使ってしまうという条件で。次の週は六ドル。毎週、前の週より一ドルずつ多く渡す。そうすれば売上税が増え、増えた分を人々への支払いにまわし、それをまた一週間以内に使ってもらえば売上税が増え……という循環を形成しようというのである。この主張はなぜかカリフォルニアで急速に支持者を増やし、全国的な運動にまで展開していく。一九三〇年代にはエイミー・マクファーソンというカリスマ的な福音伝道者が実在したが、パットもマクファーソンとよく似た宗教活動をしながら、たちまちのうちに非凡な指導者に変身するのである。

パットとメイミがこの運動にのめりこむ一方で、「おれ」はシーラという不思議な金持ちの美少女に出会い、恋に陥る。そして「おれ」はシーラと結婚したいと思う。しかしメイミに別れ話をもちかけても拒否されるだけだ。そこで「おれ」はメイミを殺害する計画を練るのだが、なんとその計画にひっかかってシーラのほうが死んでしまうのだ。

「おれ」は殺人容疑で逮捕され、死刑を宣告される。ところが死刑執行の直前に映画監督のジェンターが「シーラを殺したのは自分である」というメモを残して自殺する。そのため「おれ」は急転直下釈放されることになる。

残りの部分はちょっとはしょるが、こんなふうに「おれ」は運命に翻弄され、ついには来たときと同じ無一文になって汽車でカリフォルニアを去る。

2 資本主義と負債

私はこの作品を読んでとりわけ二つの点に興味を覚えた。一つは貨幣と負債の観念の関係についてだ。

主人公の「おれ」は、オクラホマからカリフォルニアに来るとき、浮浪者たちの一群とともに有蓋貨車に閉じ込めらる。浮浪者たちの中にはマン・マウンテン・ディーンのようないかつい男がいて、他の浮浪者たちを支配し、「王さま」と呼ばれている。彼と浮浪者たちの関係は、露骨な暴力的支配と隷属をあらわしている。「王さま」が新聞を寄こせと言ったら、みんなは新聞を差し出さなければならない。(浮浪者たちは暖房のために新聞紙を体に巻き付けている)言うことを聞かなければ鉄拳制裁が待っている。「おれ」は王さまからコートを差し出せと命令されるが、支配者の要求が気に入らなかった彼は、立ち上がって力で抵抗することになる。これは力による脅しを使った、前資本主義的な支配関係である。

しかしカリフォルニアではどうだろうか。パットのエカナノミクスではないけれど、すべての人にお金が与えられ、お金が与えられると同時に社会に組み込まれていく。注意すべきはお金を得たときの「おれ」の反応である。お金が入ると同時に彼はある種の負債の念を抱くようになるのだ。本当はやりたくないけれど、お金をもらったから、狂言強盗をしなければならない、とか、本当は早く出て行きたいのだけど、お金があるかぎりメイミのもとを離れるわけにはいかない、というように。私はそれを読んで考えた。資本主義社会は露骨な暴力をもってではなく、システムのメンバーに負債という観念を与えることで支配するのだろうか。

ジェンターがエカナノミクスの運動を宗教で味付けしようと言った場面でも考え込んでしまった。キリスト教というのは、われわれの罪を背負って死んだキリストとわれわれとの間に、宗教的な貸し借りの関係を設定するものだからだ。

最近まったくの偶然にマウリツィオ・ラッツァラートの The Making of the Indebted Man (2012) という本を読んだのだが、資本は普遍的な債権者であり、資本主義社会の構成員は資本の眼から見て罪と責任を負った債務者であるという論旨は、本書と併せて読むとき、非常に興味深いものだった。

ともあれ、この作品に於ける金の役割は深く突っ込んで考察すべきものだと思う。

3 フィクション

私の興味を惹いたもう一点は、現実を構成するフィクションという考え方なのだが、これは翻訳の「後書き」にも書いたことなので軽く触れるだけにする。

じつはこの作品を読んだとき、私は冒頭のパラグラフからひっかかってしまった。
 真夜中の勤務を終えて帰ってみると、レストランの窓に明かりがついていなかった。それを見て、おれはルイスが出ていったことを知った。
 まちがいないとおれは思った。枕の上に置き手紙が残されていることもわかっていた。
ルイスは「おれ」の妻なのだが、建物の中に入らなくても「おれ」には何が起きたがすっかり分かってしまう。それはいったいなぜなのだろうと思ったのだ。

あっさり私が考える答を言ってしまえば、「おれ」は住み馴れたオクラホマの町にいるときは、ちょっとしたしるしを見ただけで想像力を働かせ、何が起きたかを推測することができる。つまり物語を作り上げることができる。ところがカリフォルニアに行くと、そこには別の物語の構成の仕方があり、それ故、「おれ」は何がどうなっているのかさっぱりわからんとつぶやくことになるのだ。たとえばメイミが酒を飲んでも二日酔いにならないことは「おれ」にはまるで理解できない。ましてパットのエカナノミクスに人々がトチ狂うというのは狂気の沙汰としか思えない。

映画監督のジェンターは「正気の人間をカリフォルニアに連れてくるとする。すると山を越えてカリフォルニアに入ったとたんに彼らは正気を失う」と言う。つまり山に囲まれた内部には、そこ独自のフィクション、フィクションの構成法があるのだ。「正気を失う」というのは、カリフォルニアはほかのところとはまったく異なるフィクションの構成法を持っている、ということだろう。そして山はフィクションが効力を持つ地域の境界線にあたるのだ。

そう考えると、「おれ」はオクラホマという、彼がそこのフィクションの構成法をよく知る場所から、「いくつもの山脈を越えて」、カリフォルニアという奇妙なフィクションの構成法を持つ場所へ移り、さんざん冒険を重ねて、最後には彼が子供の頃に見てその向こうに幸せがあるはずだと考えた「金色の山々」、彼にとってのユートピア的な空間へ向かうことになることがわかる。

「黒に賭ければ赤が」は「おれ」が異なるフィクションの場を渡り歩く物語なのである。

そしてここで決定的に重要なのは、翻訳の「後書き」にも引用したけれど、スラヴォイ・ジジェクが言うように「フィクションとイリュージョンを破棄するやいなや、われわれは現実そのものを失う。現実からさまざまなフィクションを差し引いたとたん、現実そのものは言説構成的な、論理的一貫性を失う」(Tarrying with the Negative)という点だ。われわれは現実をありのままに見ているのではない。現実はフィクションを介してはじめて認識可能なものとなるのだ。「おれ」はすでに述べたように物語の最後で汽車に乗ってカリフォルニアを出る。つまりフィクションの圏域をはずれる。その途端にカリフォルニアで体験した出来事は一貫性のないばらばらなものとなり、彼は恋人の死にすら非現実的な印象を抱いてしまう。ところが「金色の山々」を間近に目にするや、彼は恋人の死に対する痛みを回復するのだ。新たなフィクションの圏域に入って彼は現実を回復したのである。もっともそこに広がっているのは荒野でしかないのだが。

私はこの作品は現実とフィクションの関係を描いた見事な作品だと思う。しかし何よりも驚くべきは、私が上に書いたような理論的内容が、抽象的な説明などを一切伴わない形で物語の中に溶かし込まれているということだ。