2015年10月17日土曜日

16 アン・オースチン 「黒い鳩」 

The Black Pigeon (1930) by Anne Austin (1895-1960)

谷崎潤一郎の「文章読本」は、舞台俳優の演技を例に取り、効果的な表現というのは大げさな所作を演ずることではなく、逆に藝を内輪に引き締めることによって得られると説いている。その上で文章を書くときの心得として、無駄な形容詞や副詞を使わないよう注意を呼びかけている。

これはアン・オースチンに薬にしてもらいたいような言葉である。とにかくこの人の文章はひどい。頭がくらくらする。本来なら最初の一ページで読むのをやめるところだが、本邦未訳ミステリを百冊レビューするまでは愚作も最後まで読もうと決めたから仕方がない。

この作品は次のような表現のオンパレードである。

マクマン部長刑事が鉛筆をこつこつと鳴らす音は、ルースの苦痛に充ちた、緩慢な鼓動の音に対する不吉な伴奏音となった。

あるいは

ルースは低く押し殺されたような悲鳴をあげ、彼女の恋人は腕を伸ばしてその震える小さな身体を強くいつくしむように抱きしめた。

さらにまた

「やめてちょうだい、ジャック!」とルースは懇願した。その声は哀れなまでに恐怖に震えていた。

こういう調子の文章が目白押しで、私はいい加減にしろと怒鳴りたくなった。

このヒステリックな文体にふさわしく登場人物たちもやたらと「度を失い」、「かっとなって目の前に赤いもやがたちこめ」、「青ざめて両手を握りしめ」たりする。ヒロインであるルースは優秀な弁護士だった父の血をひいているわりに、衝動的で、すぐに動転し、金切り声をあげる。彼女の恋人で保険を売っているジャックも冷静さに欠けている。マクマン部長刑事はとくにひどい。彼は粗暴なだけで知性をひとかけらも持っていないようだ。彼は殺人事件の起きたビジネス・オフィスで関係者の取り調べを行うのだが、尋問する相手が多くなり、部屋が手狭になってくると、まだ死体が横たわっている部屋に移って取り調べを続行するのである。エレベーター・ボーイを務める若い男二人が呼び出し応じて彼のもとに来たとき、部長刑事は「おまえらに一生忘れらないものを見せてやるぜ」といって死体のある部屋に彼らを連れて行くのだ。いくらなんでもこんなめちゃくちゃな警察はないだろう。しかも彼の上司はさらにひどい。誰でもいいからパクれ、真実を探るのはそのあとだ、というのがモットーだからである。警察が類型的・戯画的に描かれるのは仕方がないけれど、それにしてもこれは行き過ぎている。

おそらく途中までできた原稿を誰かが――エージェントとか近親者が――読んで作者に注意をしたのだろう。半分を過ぎた頃から過剰な文章は「ほんのすこしだけ」抑制的になり、それとともに登場人物たちも「やや」理性的に振る舞うようになる。しかしそれでも読むのは苦痛だった。あるオフィス・ビルディングで殺人事件が起き、そのあとは延々と最後まで警察の尋問がつづけられるのだが、話に緩急がなく、一本調子でその様子が描かれるため、読むほうは絶え間なく情報の処理をせまられ、だんだん疲れてくるのである。情報の流れや緊張の持続は上手にコントロールしないと、読者に過度の負担がかかるという格好の例である。要するにこの作者は基本的な小説の書き方を知らない。

この作品によい部分がないというわけではない。エレベーターに乗った時間、オフィスに入った時間、オフィスから電話をした時間など、いささか細かい事実がいくつも、何度も議論されるのは煩瑣で仕方がないけれども、新しい事実がわかるたびに容疑者がころころと変わるあたりはそれなりに面白いし、犯人も意表を突いている。ビルの屋上に棲んでいる「鳩」たちが事件の中で果たす役割も悪くはない。しかし、繰り返すけれども、文体と構成がすべてをぶちこわしにしている。

また読んでいてふと気がついたことだけれど、殺人現場がオフィス・ビルディング、つまり近代建築物の中という設定はこの頃から用いられるようになったのではないだろうか。ジャンルは違うが、出版社のビルの中に死体が転がっているという出だしの、チャールズ・ウイリアムズ作 War in Heaven はやはり一九三〇年に書かれている。ウィキペディアによると、エクイッタブルという米国の保険会社が、引き出し付きの平らな机を並べた今風のオフィスを導入したのが一九一五年だそうだ。はたして二〇年代にもオフィス・ビルを舞台にしたミステリが書かれているだろうか。ちなみに近代的なホテルとなると文豪のアーノルド・ベネットが一九〇二年に「グランド・バビロン・ホテル」を書いている。立派なサスペンスの秀作である。