2015年10月7日水曜日

14 J.ストーラア・クルーストン 「四十七番地の謎」

The Mystery of Number 47 (1912) by J. Storer Clouston (1870-1944)

最初に告白するが私はクルーストンの愛読者である。彼の作品を読むと最初の数ページで物語に引き込まれてしまう。読者を想像の世界に引きずり込む、小説の語りの技術は十九世紀の後半に格段の進歩を遂げるが、クルーストンはその最良の成果を見せてくれる。また彼は一種の職人なのだろう、ミステリもスパイ小説もユーモア小説も器用に書き分ける。私がとりわけ気に入っているのは The Lunatic At Large という作品で、これはピカレスク小説のマイナーな傑作だと思う。質の高い娯楽作品をお求めなら、クルーストンの小説を一度手に取ってみることを強くおすすめする。

「四十七番地の謎」もクルーストンの才能がよく発揮された、すばらしいミステリのパロディだ。私は読みながら何度爆笑したか分からない。

これから読む人のことを考えて粗筋の紹介は最小限度に留めよう。

表題の四十七番地とは、ロンドンのセント・ジョーンズ・ウッドにあるヒアシンス通り四十七番地のことで、ここにモリヌー夫妻と、若いお手伝いさんと、料理女が住んでいる。夫はオクスフォード大学を出てから十六世紀の詩人について論文を書いたりして小金をかせいでいる。文学者にありがちな小心で世間知らずの男だ。奥さんは逆に実務的で決断力に富む女性である。性格が正反対だが、かえってそのせいなのだろう、二人は仲良く暮らしていた。

事件は司教の地位にある夫の従兄弟が、不意に彼らを訪ねる旨の連絡を寄こしたことからはじまる。この司教は美食家で大食らいなのだが、なんと彼がやってくるその当日、料理女が仕事を辞めて出て行ったのである。司教のためにディナーをつくる人間がいない。事実を話して夕食を断れば、その性格からして司教はモリヌー夫妻のことを根に持つようになるだろう。ではどうしたらいいのか。

 お手伝いのエバ「わたし、料理ならちょっとはできますけど……」
 モリヌー夫人「わたしがエバにアドバイスすれば、美食家の司教も満足するような料理ができると思うわ」
 モリヌー氏「しかし夫婦でそろって彼を迎えてやらなきゃ……」
 モリヌー夫人「わたしは田舎に帰ったことにしておきなさい」

というわけでその日、モリヌー家にはやけに上品な料理女があらわれ、モリヌー夫人はブライトンかどこかへ出かけたことになった。

この苦心の作戦の甲斐あってその日のディナーはなかなかの出来だったようだ。しかし女主人の不在を奇妙に思った司教はしきりにモリヌー氏に彼女のことを尋ねる。そして彼女が翌日家に戻ることを聞き出すと、今晩はこの家に泊めてくれ、明日ぜひとも奥さんに挨拶したいと言い出したのである。

次から次へと降り掛かる難題に辟易としたモリヌー氏は、急に用ができて外国に行かなければならなくなったと置き手紙をして家を出て行く。

モリヌー家に一人残された司教はモリヌー氏の怪しい行動に、ついにスコットランド・ヤードを呼び出すことにする。そしてモリヌー家を訪れたブレイ警部はモリヌー氏が妻を殺し、逃げ出したのだと考える!

かくして存在しないはずの殺人事件が存在しはじめ、世紀の大事件として新聞にも取り上げられるようになるのだ。

このとんでもない殺人事件がどのように決着するかは、ぜひ本を読んで頂きたい。

これを読みながらわたしは間主観性のネットワークということを考えた。

われわれは間主観性のネットワークの中に生きている。家族、隣人、友人、会社、世間とさまざまな関係を結び、その複雑な関係性の中で生を営んでいる。人間はいわばさまざまな関係性の線が交差する項の上に存在しているのである。モリヌー夫人が仕事を辞めた料理女の位置につき、モリヌー夫人の位置を空白にしてしまったとき、ネットワークには局部的な乱れが生じた。そしてこの乱れはネットワークを通じて全体に広がっていくのである。

ネットワークの揺れ・脆弱性が文学に描かれるときはたいてい「人違い」とか「聞き間違い」が生じる。また、ネットワーク内に居場所を失った人間は「浮遊」をはじめる。しかも居場所(項)というのは「Xの母であり、Y慈善協会の理事であり、Zから千ポンドを借りている債務者であり……」というような、関係性によって規定される存在の特徴(確定記述)が束になっている場なのだが、そこから抜け出た存在はいかなる規定ももたない、名付け得ぬ物として、それこそ幽霊のように浮遊しはじめるのだ。こうした特徴はすべて本編にも見られる。これはプラウツスの「メナエクムス兄弟」とかシェイクスピアの「まちがいの喜劇」に見られるような、典型的な喜劇の骨法に従って書かれた作品である。と同時に、ポール・オースターの「ニューヨーク三部作」を見ても分かるように、ネットワークの乱れというのはミステリが絶えず取り扱う主題でもある。