2016年6月21日火曜日

番外13 「オードリー夫人の秘密」と対象a

ジャック・ラカンの議論は難解だと言われる。実際はそんなことはない。議論の前提が普通とは違うので、難しく感じるだけだ。

通常、我々は「世界は存在する」と前提してものを考える。タンポポも猫も文学も存在し、それら存在物について議論することができると考えている。

ところがラカンの考え方の基本は、「世界は存在している。そんなものは存在するはずがないのに」というものなのだ。

「存在しているが、しかし存在するはずのないもの」は存在なのか、存在じゃないのかというと、どちらでもない。それは存在し、かつ、存在しないものである。

この前提から出発するなら、ラカンの議論であつかわれるものは皆、存在し、存在しないことになることがわかると思う。彼が「女は存在しない」とか「主体は存在しない」とか「大文字の他者は存在しない」というように「Xは存在しない」という言い方を多用するのは当然のことだ。

ラカンを読んであきれてしまうのは、こういうパラドックスを含んだ前提から一貫性のある議論を引き出したことである。これはロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学とおなじくらい私にとってはショッキングなことだった。(アラン・バデューがラカンの議論を集合論にマッピングして見せたときも唖然としたけど)

有と無が一致するというように、あるスペクトルの両極端がパラドキシカルにも一致するとき、ラカンの議論は思考に対してすぐれた導きの糸を提供する。私がそれを痛感したのは「オードリー夫人の秘密」を読んだときだった。

オードリー夫人の中にはまさしく両極端が重ねあわされている。一方において彼女はヴィクトリア朝時代の理想の女性、「家庭の天使」なのである。英文学に詳しくない人のために簡単に説明すると、家庭の天使という言い方は、コヴェントリ・パットモアというヴィクトリア朝詩人の詩のタイトルから取られたもので、この詩には理想の妻の姿が描かれている。ヴァージニア・ウルフはこの詩に対して皮肉なコメントを残している。「完璧な妻はとても同情的であった。彼女はおそろしく魅力的である。彼女はまるでエゴというものを持たない。彼女はむずかしい家族生活をかしこくこなした。彼女は毎日犠牲を払った。鶏を食べるときは、彼女は脚を取った。すきま風が吹き込んだら、彼女はその上に座った。要するに彼女は自分の心を持たず、他人の心や要求にいつも自分を合わせることを好んだ。とりわけ……言うまでもないが……彼女は純粋であった」批判的なコメントだけれども、この詩の内容はよくわかるだろう。オードリーフ夫人はまさにそういう無垢で、夫にとって魅力あふれる女性として振舞っている。

しかしその一方で、彼女は犯罪者、実際に人を殺してはいないが、明白に殺す意図を持って放火したり、夫を井戸に突き落とすような女性である。この当時、女性の犯罪者が毒々しい色合いでもって新聞を賑わせ、大衆の想像力を強烈に刺激したものだが、彼女はそれとおなじモンスター(化け物)なのである。モンスターとはずいぶんな言いようだと思われるかもしれないが、実際本文にはオードリー夫人の肖像画に関して、中世の奇怪な化け物を描いたように見える、という一節がある。彼女は「美しい悪魔」であったとも書いてある。

「美しい悪魔」という形容矛盾こそ、オードリー夫人の特質である。彼女は婦徳というスペクトラムの一方の端、つまり一時代の理想であると共に、他方の端、すなわちモンスターのような女の犯罪者でもある。両極端が折り重ねられ、合致しているところに彼女は「存在」する。彼女はパラドクスを構成しているのである。

非常に興味深いのは、サー・マイケルが彼女に求婚する場面である。サー・マイケルは美しい、理想的な女性に出会って恋に陥る。そして厳かに彼女に結婚を申し込み、それは受け入れられる。普通ならサー・マイケルは悦びに溢れそうなものだが、そこで彼はまるで胸の中に死体が横たわっているような気分になったというのである。この挿話においてオードリー夫人はサー・マイケルの欲望の対象である。しかしそれは「家庭の天使」のような相貌を見せているかぎりにおいてそうなのだ。欲望の対象を実際に我が物にしたとき、サー・マイケルは心をときめかせたその対象が、実はほしくもないような何ものかであることを直観したのである。サー・マイケルは欲望の対象に向かって突き進んだが、その道はメビウスの輪のように奇妙にねじれて反転し、いつの間にか彼はその反対物へ向かって進んでいたことになる。オードリー夫人は欲望の対象でありつつ、欲望を挫折させるものなのである。少し言い方を変えると、サー・マイケルはけっして欲望の対象に到達することはない。彼はかぎりなく対象に接近するが、それを手にしたと思った瞬間に、欲望の対象は欲望せざる対象に変質してしまっているのである。欲望の対象であるオードリー夫人は、存在し、かつ存在しない。「女は存在しない」

と、ここまで言えば、私がオードリー夫人の中に、ラカンが対象a、あるいは欲望の対象と呼ぶものを見て取っていることがおわかりになるだろう。アキレウスが亀に決して到達しないように、主体は対象aには決して到達しない。対象aは獲得不可能な、禁じられた対象なのである。

ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクは、対象aは空虚な空間(穴)を覆い隠す fantasy figure であると言っているが、オードリー夫人もまったくおなじである。私はオードリー夫人が欠如・穴であることに着目し、自分が翻訳した「オードリー夫人の秘密」の後書きの中で、オードリー館における時間・空間を論じ、いずれにも穴があいていること、またオードリー夫人の存在自体が間主観性のネットワークに開いた穴であることを示した。そういう議論に興味のある方はぜひ私の翻訳を手にとって読んでみていただきたい。

「オードリー夫人の秘密」がラカン的な作品であることに気づいたとき、私は社会と精神分析の関係について考え直さざるをえなかった。ラカン派の人々は、精神分析を社会批評に応用してべきだと考えているが、しかし「オードリー夫人の秘密」が百年以上も前に、ラカン的精神分析の内容をヴィクトリア朝の社会的現実から得ていたことを考えると、精神のほうこそ社会現象ではないのかという気がしてくる。フロイトがモーゼや原父についてメロドラマを構成したのもそのことと関係しているような気がするのだが。