2016年6月16日木曜日

65 アーサー・B・リーブ&ジョン・W・グレイ 「ミステリ・マインド」

The Mystery Mind (1920) by Arthur B. Reeve (1880-1936) and John W. Grey (1885-1964)
 
本書は一九二○年に映画として発表された The Mystery Mind のノベライゼーションである。アーサー・B・リーブとジョン・W・グレイはおそらく脚本を書いたのだろう。小説化したのはマーク・エドマンド・ジョーンズという人である。映画のノベライゼーションが一九二○年のころからすでにあったのかと驚く。

映画のノベライゼーションは、私はわりと好きで、本棚をちらと見ると The Fugitive とか Back To The Future とか War Games などの本が並んでいる。しかし本作を読むのはつらかった。話がばかばかしいだけで、さっぱり面白くないのである。

ノベライゼーションといっても、ただ映画の内容を文字に書き起こせばいいというものではない。いいノベライゼーションは、やはり一つの主題をめぐって映画の内容をまとめ直したものである。いい映画にはかっちりした構成があるが、それを忠実に文字化しても、いい構成を持った小説にはならない。小説は小説で、独自の構成を意識してつくりださないといけないのである。

このことは小説を映画化する際のことを考えるとよりはっきりとわかる。たとえばアンソニー・バージェスの「時計じかけのオレンジ」はみごとに構築された小説である。では、あの小説を一ページ目から忠実に映像化すればいい映画ができるかといえば、そうはならない。スタンリー・キューブリックの映画「時計じかけのオレンジ」が傑作なのは、あくまで小説をベースにして、独自の美学、独自の構成をもつ、映像の物語をつくりあげたからである。

残念ながら「ミステリ・マインド」には独自の構成がない。本作のもとになる映画は見ていないのだが、おそらく銀幕上に映し出される事件をすべて、順番も変えずに小説化したのだろう。しかしこれではまずいのだ。本書では主人公たちの身に次々と危難がふりかかるが、これは映画で見るとハラハラドキドキ面白いのだろうが、小説で読むとはてしもなくつづく類似パターンの反復が退屈を生んでしまうのである。小説だって冒険がたくさん描かれていてもいいのだが、視覚芸術の映画とは異なるリズムで展開されなければならないのだ。

また、危機的状況が、いつも主人公たちの無鉄砲、無分別、ある種の愚かしさから彼らにふりかかるという点も、小説を読んでいると気にかかる。このことは映画なら、場面展開の早さのせいで、あまり目立たないのかもしれないが、読者に反省的思考の時間がある言語芸術としての小説の場合は、物語を展開させる作者の手際の雑さ加減に気が付いてしまうのである。

内容を簡単にまとめておく。ブロンソンとスチールという二人のアメリカ人が、南アメリカはオリノコ川上流に隠された宝物の地図を発見する。しかし悪魔を崇拝するそこの現地人が二人の目的を知り、地図を奪おうとする。彼らから逃げ回り、瀕死の状態におちいったブロンソンは、地図を友人の医者に渡し、医者は命からがらアメリカへまいもどる。しかし悪魔を崇拝する現地人はニューヨークへもその魔の手をのばし、宝の地図と、地図を持っているブロンソンの娘を捕まえようとするのである。かくして悪の集団と、ブロンソンの娘を守ろうとするフィアンセ、その他、善玉たちの集団の全面対決が繰り広げられる。

物語は最後のところでひとひねりが加えられるが、基本的には先進国の人間が後進国の富を奪い、にもかかわらず後者の人々が悪として描かれるという、この当時にはよくあった物語のパターンを踏んでいる。