2016年3月6日日曜日

45 アニー・ヘインズ 「クローズ・インの悲劇」

The Crow's Inn Tragedy (1927) by Annie Haynes (?-1929)

アニー・ヘインズの経歴はほとんどわかっていない。本作を読むかぎり、古いタイプの冒険譚から黄金期のミステリへの橋渡しをした作家の一人のように思える。古い要素を多分に持ちつつも、新しさをどことなく感じさせるのだ。古いと思わざるを得ないのは、たとえばイギリスを脅かす宝石泥棒の集団イエロー・ギャングとスコットランド・ヤードの鬼警部ファーニヴァルの対決という、いかにも大時代な図式、また女性たち(ミセス・ベッチコウム、ミセス・カーンスワース、ミス・ホイル)のヒステリックな反応、登場人物の善悪を截然と分かとうとするところ、血筋への執着などといったところである。物語の最後で鬼警部ファーニヴァルと老弁護士ステッドマンが敵地に乗り込み大冒険をするあたりも古き良き活劇を見ているような気分になる。

しかし事件そのものと、その捜査の過程には多少近代的なミステリの趣が見出される。あらたな証拠の登場により、事件の様相が変化する、その面白さを取り入れているからである。もっともあまり上手な取り入れ方とは言えないのだけれど。

事件はクローズ・インと呼ばれる建物の中にあるベッチコウムの法律事務所で起きる。ベッチコウムは弁護士であるだけでなく、依頼を受ければ宝石の売買の手伝いもしている。これはなかなかいいサイド・ビジネスである。弁護士として手堅い評価を受けているならば、手持ちの宝石を売って現金を手に入れたい金持ちから依頼を受けることも多かろうと思われる。彼は、アメリカ人の金持ちと結婚したが、浪費癖の烈しいミセス・カーンスワースから宝石を処分してほしいと電話で頼まれ、ある日、彼女にその宝石を事務所まで持ってきてもらうことにする。ミセス・カーンスワースはそこではじめて出会った弁護士に事情を話し、宝石を手渡して、早々に出ていく。なにしろ彼女は今の言葉で言うセレブであって、宝石の処分のために弁護士に会ったなどということがわかれば、たちまちスキャンダルのネタにされてしまうからだ。それがお昼の十二時半くらいの出来事である。

さて、ここからが問題である。弁護士は昼飯後もなかなか自室から出てこない。心配になった事務員が彼の部屋の中に入ると、なんと弁護士は死体となっているではないか。クロロフォルムをかがされ、首を絞められて殺されていたのだ。しかも、医者の診断によると、彼が死んだのは十二時ころだと言うのである。しかしミセス・カーンスワースは十二時半に彼に会っている。いったいこれはどういうことだろうか。

もちろんミステリに馴れた人なら、何が起きたかはすぐわかるだろう。そしてこうした場合は何をチェックすればいいのかも判断がつく。そう、警察はミセス・カーンスワースが会った人物がほんとうに弁護士のベッチコウムであったかどうかを確認すべきなのである。ところが、なんとしたことか、警察はそれをしない。後日、挿絵入りの新聞で弁護士や容疑者の顔を見たミセス・カーンスワースが警部のもとに出向き、彼女が弁護事務所で見た人物はベッチコウムではなかったと証言し、そこではじめて死亡推定時刻の謎が氷解するのである。

これは警察の捜査がずさんであったというより、作者がまだ近代的なミステリの書き方に通暁していなかったと考えるべきだろう。この程度のことを謎にしてはいけない。しかしながらこれが過渡的な作品であると考えるなら、まあ、それも致し方ないかとは思う。

この作品で何よりもよかったのはアメリカ人の金持ちミスタ・カーンワースと老弁護士ステッドマンが口論する場面である。イギリス人の老弁護士は丁寧というか硬い表現を用い、アメリカ人は非常に口語的なくだけた物言いをする。
 ステッドマン「おっしゃることがわかりませんな」
 カーンワース「ふうむ。そのことは言ってもよかったんだ。何度も考えたことだからな。しかしそれを言ってあなたがたお二人さんに腹を立てられても困ると思ってね。とくにこちらの方は、お亡くなりになったミスタ・ベッチコウムの従兄弟だからね」
カーンワースのくだけた口調、いわゆる lazy mouth と呼ばれる発音、べらんめえのような言葉の勢いがうまく訳せないが、とにかくここにはアメリカ文化とイギリス文化の対立、粗暴と洗練、開けっぴろげな態度と用心深さが対比されていて面白かった。それにしても二十世紀初頭の英国ミステリに登場するアメリカ人は大金持ちか悪党かどっちかで、普通の市民が出てくることはほとんどない。大西洋を渡ってこられるのは富裕層だけだったという事情はあるにしろ、こういう通俗的なイメージでアメリカを描くのはどうかと思う。