2016年3月16日水曜日

46 ピーター・バロン 「蝋面殺人事件」 

Murder in Wax (1931) by Peter Baron (1906-?)

蝋面をかぶった怪人ザ・スクイッドは手下を使ってロンドンの貴族たちから高価な宝石を奪い取る泥棒である……と書いただけで、サックス・ローマーのフー・マンチューものや、エドガー・ウオーレスの作品や、日本で言うなら江戸川乱歩みたいな作家の作品を思い出すだろう。まったくその通りで、ザ・スクイッドの悪巧みと警察の活躍、さらに事件に巻き込まれる貴族たちの容子がエピソディックに書き連ねられている。

出だしはこんな具合だ。
 ジョン・リッチモンドは卑怯者ではない。しかし愚か者でもなかった。そのとき彼が直面していた危険は、まさに現実のものだった。彼はそれを自覚し、無謀な真似はしなかった。灰色のクライスラーを巧みに操り、デットフォードを抜け、ニュー・クロス・ロードへ向かった。
これを読んだだけでチープなダイム・ノベルの世界へといざなわれるだろう。私はパルプ小説やダイム・ノベル的な馬鹿馬鹿しさをこよなく愛するので、これだけで胸がわくわくする。ジョン・リッチモンドは重要な手紙を持って大陸からロンドンへ帰ってくるのだが、その間、ずっとザ・スクイッドの組織に追われっぱなしだった。そして敵の追跡をかわし、ようやく目的地に着いたと思った途端、ピストルで背中を撃たれてしまう。ひどくスピード感のある出だしで、こうやって読者を一気に物語の中に引き込もうというのである。

本書に描かれる貴族たちはある種の俗悪さと傲慢さを持ち、また奢侈におぼれた者の愚鈍さと悪賢さを兼ね備えている。中でも出色なのは公爵の甥フレディ・レスターである。職には就かず、遺産でのらくら遊んでばかりいる男で、妙ちくりんな言い回しや、機知のきいた当意即妙の返答にかけては、この男の右に出るものはなかろうと思われる。「わたしの魅力を覆い隠しているこのカビを取り除く道具を貸してくれ」といってひげそり用具を要求し、公爵がスクイッドを評して「ありゃあ、銀行の経営者よりも教養がある悪党だ。紳士泥棒というやつだな」と言うと、フレディは「紳士も泥棒もおなじ意味ですよ」と返答し、スコットランド・ヤードの警部に「冗談はやめてその男の名前を言い給え」と言われると、シェークスピアをもじって「お望み通りに。しかし名前なんかなんだというのです? (As you like it, but what's in a name?)」とやり返す。公爵は「ストーラア・クルーストンの Lunatic At Large はこの男をモデルにして書かれたのだろう」と言うくらいである。(ストーラア・クルーストンを紹介した本ブログ記事の中でも書いたが、Lunatic At Large はピカレスク小説のマイナーな傑作である)このふざけた男が実は国家秘密情報局の……いやいや、そこは本書を読んでいただこう。

もう一つこの作品の特徴としてあげられるのはスクイッドの残忍さである。先ほど公爵が彼を「紳士泥棒」と評した言葉を引用したが、紳士なんてとんでもない。彼が人を殺すやり方は、読んでいて胸が悪くなるくらいむごたらしい。この時期に書かれたパルプ小説でこれだけ残酷な悪党はなかなかお目にかかれない。彼にとっては友人も親戚も関係ない。邪魔な者、不都合な存在は容赦なく殺してしまう。しかもそのやり方がひどすぎる。彼に情けがあるとしたら、それは相手が苦しまないようにすばやく殺してやろうという情けである。銀行家を金庫に閉じ込めたり、警察が入り込んだ迷路に爆弾を仕掛けて吹き飛ばす場面など、眉をしかめて読んだ。この非情さは尋常一様ではない。

スクイッドの驚くべき正体は本書の末尾に明かされるが、じつは彼は立派な地位を持つ資産家であり、資本家なのである。フレディの「紳士も泥棒もおなじ意味」という台詞は、真実を言い当てていたのだ。この作品は資本家がべつの資本家を――たとえそれがどんなに親密な関係にある人であれ――非情にも殺していたという話なのである。近年、資本主義は、かつてかぶっていたパターナリズムや家族主義といった仮面を脱ぎ去り、今は民主主義すらをもそれ自身にとって邪魔なものとして捨て(一昔前は資本主義国家でない国には民主主義がないと考えられていたものだが)、ハゲタカのような姿をあらわそうとしているが、そうした果てに行き着くのがスクイッドという形象ではないかと私は考えて、なんだか重苦しい、厭な気分に陥った。ジャンル小説とかポピュラー映画は、案外、現実の真相を露骨に描き出していることがあるのである。本書はダイム・ノベルには珍しい暗澹たる結末を迎える。

作者は本名をレナード・ワースウィック・クライド (Leonard Worswick Clyde) というらしいが、そのほかのことはまったくわからなかった。