2016年3月23日水曜日

48 アーサー・ジョージ・モリソン 「壁の穴亭」

The Hole in the Wall (1902) by Arthur George Morrison (1863-1945)

これは厳密にはミステリではない。犯罪小説とでも言えばいいのだろうか。しかしディケンズやコリンズの伝統にのっとった見事な作品である。

テムズ川にはあちこちにドックと言われる係船渠が存在する。桟橋やら倉庫があるだけでなく、ここではたらく人々のための酒場なども存在する。しかし海の荒くれ男や、いかがわしい素性の人間たちが集合する場所なので風紀ははなはだしく悪い。金目のものを身につけて酔っ払ってなどいたら、さっそく泥棒に遭うか、下手をすれば殺されてしまう。かつてイースト・エンドにあったライムハウスなどはそのもっとも有名な例だろう。こうした港湾地区はまがまがしい犯罪のにおいを放ちながら、同時に犯罪が持つ奇妙なロマンチシズムに耀いていた。トマス・バークの「ライムハウスの夜」とか、私が訳したビガーズの「苦悶の欄」を読んでいただけるとそのあたりのことがおわかりになると思う。ロンドンは不思議な都市で、その姿がはっきり見えているときよりも、霧に覆われているときのほうが魅力的であり(クロード・モネは「霧がなければロンドンは美しいとはいえないだろう」と言った)、大勢の人で混雑する日中の大通りよりも、その先に何が潜んでいるかわからない、謎めいた夜中の狭い路地のほうがロマンを感じさせる都市なのである。

本編の主人公はまだ五六歳と思われるスティーブン少年と、その祖父であるキャプテン・ナットである。スティーブンの父は水夫で、今は航海に出かけていていない。しかも父が航海に出かけている最中に、身重だった母が病気で亡くなってしまった。彼は祖父のキャプテン・ナットに引き取られることになる。祖父も昔は水夫だったが、今はドックで「壁の穴亭」という酒場を経営している。

しかしスティーブンは祖父が酒を売るだけでなく、ほかにも違法な手段で金を儲けていることに次第に気づいていく。煙草の密輸入がその一つ。盗品を買い取り、高く売るのがもう一つ。それだけではない。怪力の持ち主であるキャプテン・ナットは違法な売買だけでなく、もっと怖ろしい犯罪にも手を染めていただろうと思われる。(スティーブンは無邪気に「おじいちゃんは人を殺したことがあるの?」と尋ねている)

スティーブンが祖父に引き取られて「壁の穴亭」で生活するようになった頃、二つの大きな事件が起きた。スティーブンの父が乗っている船を所有している船会社がつぶれたのである。共同経営者の一人が会社の金を持って行方をくらましたのだ。

もう一つの事件は、「壁の穴亭」の前で一人の男が殺され、そのごたごたの最中にスティーブンが札入れを拾う。警察が捜査を終えて帰り、一段落したときにスティーブンはそれを祖父に見せるのだが、そこには八百ポンドという大金が入っていた。祖父はそれを猫ばばし、スティーブンの将来のための資金にしようと考える。

こう書けば何が起きたかはおよそ想像がつくだろうが、ともかくこの物語は以上二つの事件を軸に展開していく。

登場人物の一人一人がディケンズ風の筆致でもって個性豊かに描かれ、スティーブンの視点と全体を俯瞰する視点の、二つの視点を交錯させながら悠々と物語が展開していく。アーサー・モリソンの才能が遺憾なく発揮された秀作だと思う。とりわけ八百ポンドという大金の動きは興味深い。実を言うと、倒産した船会社は持ち船をわざと沈没させ、保険金詐欺をはたらいていたのである。しかも沈没させられたのは、スティーブンの父親が乗っていた船で、彼は船を沈没させることに反対したがために船と共に海の藻屑と化したのだ。その他の船員はみな助かったというのに。不正な手段で得られた保険金は共同経営者によって会社から盗まれ、スティーブンの手許に届いたのである。キャプテン・ナットはスティーブンの父親、すなわち彼の息子を殺して会社が得た金が、まわりまわって自分の手許に届いたことを知ったとき、「これこそ神さまの思し召しだ」と叫んだが、私もこれこそラカンが言った「手紙は必ず宛先に届く」というやつだと思った。しかもこの金はすべてお札で、番号を控えられているために、使うことができない金なのである。使えば番号からすぐに足がついてしまうのだ。使用不可能な使用価値というパラドキシカルなこの金は対象a、ファルスではないだろうか。殺人というありうべからざる社会の亀裂が、金という見かけを取ってあらわれたのである。さらに対象aとは象徴界にあいた穴であり、そのことと「壁の穴亭」という名前のあいだには何か連関があるのではないだろうか。まだ充分に考えがまとまらないけれども、これから何度か読み返し、全体の構造をはっきり見きわめたいと思う。

作者のアーサー・モリソンは日本美術に興味を持っていた作家で、マーチン・ヒューイットやホーラス・ドリントンといった探偵の活躍する推理短編を書いている。