2016年2月3日水曜日

38 コートランド・フィッツシモンズ/ジェラルド・アダムス 「これは殺人だ!」

This -- Is Murder! (1941) by Cortland Fitzsimmons (1893-1949) and Gerald Adams (?-?)
 
タイトルもひどいが、文章もひどい。よくこんなものが出版されたものだ。文章の訓練を受けたことのない素人が、自分だけいい気になって筆を走らせたという印象の作品で、登場人物の性格も心理もおよそ単純きわまりなく、会話にユーモアを持たせようとしているが、そのあまりの臭さに鼻をつまみたくなる。以前アン・オースチンという人の「黒い鳩」という作品をこき下ろしたことがあったが、本作はそれに匹敵する駄作である。

「文章がひどい」と書くと、私はいわゆる文学的な格調の高い文章を好むように思う人がいるかもしれないけれど、それは違う。文法的に正しい文章が書け、措辞に巧みな人がものした作品であっても、感心しないことはよくある。また本作は小説家がハリウッドの映画制作にまつわる殺人事件を語る形式を取っているが、口語的な文章だからと言ってだめだということもない。エリック・ナイトの「黒に賭ければ赤が」は教養のない田舎者が語る物語だが、あの文章はすばらしいと思う。

善い悪いの違いを説明するのは難しいが、思い切って簡単に言えば、文章にある種の緊張感があるかどうかが問題なのだと思う。コミック・ノベルであってもよい作品には文章に「ある種の緊張感」があるのだ。それは文章を通して世界と対峙する認識力の緊張感である。作者自身がそのことを意識している、していないは別として、私は知的な認識を持たない作品は、娯楽のために書かれたものであったとしてもつまらないと思う。また認識があったとしても、それが平凡に堕している場合は、やっぱり作品としてもつまらない。

最近カズオ・イシグロの発言がきっかけになってジャンル小説と本格小説の違いということが議論されたけれど、私にとってはどちらの場合も評価の基準は同じである。私はヘンリー・ジェイムズを読むときのようにジョルジュ・シムノンを読むし、読解の対象としてどちらが難しいかと問われれば、両者はまったく同じと言うしかない。つまり私にとってジャンル小説も本格小説も価値的には同じである。そのような区別をすること、そしてそのような区別によって(わかりやすい、とか、読みやすい、といったような)価値づけをすることには、何の意味もない。

アーノルド・ベネットは本格的な小説のほかにファンタジーと称して一連の娯楽作品を書いている。グレアム・グリーンもエンターテイメントと称するジャンル小説を書いている。三島由紀夫だって「金閣寺」のようなこむずかしい小説のほかに、通俗的な作品を多数書いている。これらは読者層を意識して書き方を変えているのだが、より接しやすい作品だからと言って、その読解が容易であるかというととんでもない。三島由紀夫もグレアム・グリーンも本格的な小説のほうがそのテーマや構造は見て取りやすい。通俗的な作品のほうが、作家の観念がより作品の中に溶け込んでいる場合が多く、それを取り出すのはかえって難しいのである。「黒に賭ければ赤が」はそういう作品だ。話は面白くて難しいところなどどこにもないが、実は哲学的な議論がその中に溶かし込まれている。それを取りだしてくるには相当な読解力が必要である。

話が思わぬ方向に進んでしまった。今回読んだ本は、あまりにも馬鹿馬鹿しく、議論する箇所がどこにもないので、こういうことになってしまった。しかし一応ノートをつけながら読んだのだから、最後に本作の概要をちらっとだけ書いておこうか。

ハリウッドのとある映画会社が「ブルー・ラグーン」という映画の撮影を開始するに当たり、ヨット上でパーティーを開催する。集まったのは映画監督、主演女優、共演者、会社の社長、脚本の原作者、新聞記者、その他もろもろである。その席でちょっとしたゲームが行われる。宝石が浅瀬の澄んだ海の中にばらまかれ、それをパーティーの参加者がもぐって取ってくるという遊びである。取っただけ自分のものにできるとあって、大勢が水しぶきをあげて海に飛び込み、大騒ぎである。ところがすぐに主演女優が力なく水の中を漂っているのが見つかる。助け上げてみると、彼女は死んでいた。足にはナイフで切ったような跡がある。調べると即効性の毒を塗ったナイフで切りつけられたらしい。犯人はヨットに乗っていた誰かだ。乗客は一人一人調べられ、その背後に複雑な人間関係、国際的陰謀、情欲や利害が存在することがわかる。

いちいち例を挙げて説明する気にもなれないが、はたしてこんなことが現実にあり得るだろうか、とか、かりに戯画化されて描かれているにしてもはたして人間はこんな行動を取るだろうか、といった疑問が次々と湧いて来る。はっきり言って小説以前の作品である。