2016年1月31日日曜日

37 ハルバート・フットナー 「ハンサムな若者たち」 

The Handsome Young Men (1930) by Hulbert Footner (1879-1944)

ハルバート・フットナーは軽快なテンポの物語を書く。物語の多くはニューヨークの上流社会を舞台に、諧謔、ユーモア、皮肉、コメディを交えながら、あくまでも軽いタッチで展開していく。私はその軽い作風が大好きで、彼の「罪深きブルジョア」という本を訳したことがある。これは風刺が効いているだけでなく、物語の途中にあっと叫び声をあげてしまうような驚くべき事実の暴露が挟まれている。

彼の作品を読むと一九二十年代の風俗がよくわかる。一九二十年代といえば、フラッパーと呼ばれる女性たちが登場した時代である。ウィキペディアの記述によると、この新しい女性たちは「短いスカートをはき」「髪をショートヘアにし」「ジャズを聴き」「古い女性らしさの観念に反発した」のだそうだ。派手なメイクをほどこし、酒を飲み、煙草を吸い、性的にも自由で、車を運転する。ヴィクトリア朝においては女性は質素な生活を営み、家事に精を出し、信仰深くあるべきだとされていたけれど、そうした因循な女性の役割をひっくり返そうとしたらしい。それゆえフラッパーたちはただその振る舞いが奔放であるだけでなく、女性の権利をも主張している。

さらにウィキペディアからの引用をつづけると、このフラッパーは一九三〇年代の大不況の時代に入って消滅したのだそうだ。確かに不況で生活が苦しくなれば、フラッパーのような大胆でヘドニスティックな生き方は受け入れられなくだろう。このような変化はアメリカに限ったことではないし、またこの時期に限ったことでもない。バブルの時期とその後の不況の時期を見較べると、どの国においても、いつの時代においても多かれ少なかれ女性の流行にこのような特徴が見出されるのではないか。

それはともかく、フットナーはこのような、どこか浮薄な感じのする時代を描き、その時代が過ぎ去るとともに忘れられていった作家である。

本作はマダム・ストーリーが活躍する中編作品。マダム・ストーリーは上流階級のきわめて美しい婦人なのだが、煙草を吹かし、薄汚い掃除婦に変装して、伝法な言葉遣いをしたり、ピストルも使えば、ナイフで悪党を刺したりもする、まことに剛胆で自由な女性である。二十年代という時代の雰囲気から生まれてきた主人公だと思う。

物語は億万長者の娘コーネリアがロディというハンガリー人のダンサーと恋に落ち、親の反対にもかかわらず勝手に結婚の手続きをしてしまうところからはじまる。マダム・ストーリーは「戦争後、富裕層のあいだから規律が失われた。今では金持ちの子供たちはディナーに行くみたいに無造作に結婚してしまう」と言っているが、ま、こういう時代だったのだ。ところがロディは結婚してから本性をあらわす。彼は父親をホテルに呼びつけ、大金を彼ら夫婦に支払う契約書にサインをさせる。そのあくどさに新妻のコーネリアは失神し、父親も愕然となってホテルを去る。その直後である。銃殺されたロディの死体がベッドの上で発見されたのだ。いったい誰が殺したのか。

じつはこの殺人の背後にはある秘密の組織が存在していた。それはヨーロッパの下層階級から見目形のよい若い男をアメリカに連れてきて、英語と作法をたたき込み、上流階級の若い女を誘惑するという組織である。もちろん金持ちに寄生して金を吸い取るのが目的だ。アメリカの女性は手にキスをするといったヨーロッパ的な作法で迫られると滅法弱いのだそうである。しかも戦争後のリベラルな風潮の中で心に緩みができていた。この組織はそこにつけ込んだのだ。

マダム・ストーリーは助手のベラとともにこの組織のアジトに潜入し、見事そのボスを捕らえ、同時にロディ殺しの犯人をも特定する。

ささっと読めてしまうフットナーらしい作品ではあるけれど、私はちょっと不満を感じた。コーネリアと父親は、最初コーネリアの恋人をめぐって対立する。しかし恋人がヨーロッパから来たごろつき・悪党であることが判明し、マダム・ストーリーの活躍により悪党は排除される。排除された後、コーネリアと父親は再び親密な親子の関係を取り戻す。要するにこういう話なのだ。外部から悪がやってきて、内部の関係を汚染する。だから内部から悪を取り除き、もとの純粋さを取り返す。本作はこういう単純なパターンのお話に過ぎない。そこが私には不満なのである。

おそらくフットナー自身もそのことはよくわかっていたと思う。彼の遺作となった「殺人に蘭の花を」(1945) にはそれまでの作品にはないある種の重苦しさが立ち籠めている。一九三十年代に入り、不況が訪れ、世の中の複雑さが見えてくると、フットナーですらも、もはや単純なパターンの物語を書くことはできなくなったのだろう。