2016年1月9日土曜日

34 シリル・ヘア 「死のテナント」 

Tenant for Death (1937) by Cyril Hare (1900-1958)

何十年前だろうか、「英国風の殺人」を読んで衝撃を受けた。あれはミステリの形をした構造人類学みたいなものである。あのときから私にとってシリル・ヘアは恐るべき作家になった。

本編は彼の処女作らしい。しかし力のこもったいい作品である。ある事件の関係者が三人も同じ時にフランスに渡った。これが二人であれば、偶然と言うこともできるだろう。しかし三人もいる。この「異常な」偶然はいかにすれば「異常」でないものにできるのか。本編の核心を単純化すればこうまとめられるだろう。そしてそれが「英国風の殺人」における問題設定とよく似ていることがわかるはずだ。この殺人は英国的ではない。どう考えたら英国的な殺人になるのだろう? その解答にある種の幾何学的な感性がはたらいている点もそっくりである。

処女作とはいえ、物語の語り方には工夫がこらされている。最初の数章は事件を取り巻く人々のことを描き、事件が発覚してからはスコットランド・ヤードのマレット警部の活躍が物語の中心になる。たとえば第一章だが、これは事件が起きる現場近くで新聞を売っているジャック・ローチという男のことが語られる。雨が降る寒い日、彼は街頭で新聞を売っている。リューマチを病んでいるので、はやく飲み屋で一杯やりたいものだと思う。そういう彼の生活・心情が短い章の中に的確に表現されている。この地味な色彩の絵画を見せられたあと、第二章では一転して不動産屋や銀行家たちの不正な資金運用について語られる。第三章で描かれるのは、情婦として生活している女の家の様子、第四章では釈放されたばかりの男がフランスに行き娘と出会う情景、第五章ではまたロンドンに戻り、若い恋人がデートを愉しみ、将来を語り合う場面、第六章では不動産屋の職員二人が賃貸期限の切れた家に赴き、インヴェントリーの調査(家具やら食器やらが貸し出す前の状態と同じかどうかを確認する作業のこと)をし、その最中に死体を見つける容子が描かれる。こんなふうに多彩な角度から事件の周縁をあらかじめ読者に提示し、死体が見つかってからは警察の捜査に物語が集中するというわけだ。

事件の概要は次のようなものである。不動産屋がインヴェントリーの調査中に発見した死体はバランタインという金融業者で、これが人を騙して銀行をつぶしたりしているろくでもない男である。しかしバランタインはこの家を借りていたわけではない。家を借りていたのはジェイムズという人物である。ところが警察がジェイムズに事情を聞こうにも、ジェイムズは行方不明なのだ。彼の身元を探ろうと警察は銀行やら保証人やら、ありとあらゆる方面を捜査するが、すべてが無駄に終わる。ジェイムズは見事にその正体を隠しているのだ。いったい彼は誰なのか、どこに行ったのか。マレット警部はふとあることに気づき、ジェイムズの謎を解き明かしてくれる。

ミステリを読み慣れていれば事件のトリックにはすぐ気がつくだろう。私もすぐにわかった。しかし三人の容疑者がまったく別個に、しかしまったく同じ時期にフランスへ行くという異常な偶然を、普通の偶然に置き換えてみせる手際、あそこで見せる感性はシリル・ヘアならではのもので、私に強い印象を与えた。

風俗的な描写においても本書は興味深い。一九三〇年代のイギリスにおいては本書に描かれているような経済詐欺が横行していたのだろう。たしかフランシス・ビーディングの Death Walks in Eastrepps (1931) にも詐欺をはたらいて逃げている男が描かれていた。また若く美しい娘を持つ父親がこんな感慨をもらしているのもおもしろいと思った。
娘と恋人との結婚には大賛成さ。もっといい相手も見つかるかもしれないが、しかしハーパーは立派な若者だよ。あいつの父親を知っているがね、立派な家族だった……もっとも今どきの若い連中のやり方は、わたしらが若かった頃のやり方とはずいぶんちがう。昔は嫁さんを養えるような経済力がついてから両親に会ったものだが、今はそんな見込みなんてすっとばして婚約するからね。でもそれから待たなきゃならない。でもって長すぎる春っていうのはみんなを不安にする。わかるだろう?
あるいは彼はこうも言う。
まったく今どきの若者らしいよ。秘密、秘密、秘密。わたしの若い頃は「収入はいくらだ? どうやって稼いでいる?」と訊かれたものだ。今は「わたしには娘さんを養う力がある。余計なことは訊かないでくれ」だ。
こういう細かな風俗の変化を知り、それに対する人々の反応をしみじみ味わえるというのが、小説を読むことの余徳である。