2016年1月23日土曜日

36 J.J.コニントン 「博物館の目」 

The Eye In The Museum (1929) by J. J. Connington (1880-1947)

これは本格的なパズル・ストーリーだ。秀逸な出来、とまでは言えないが、手堅い作りの作品である。手掛かりはすべて提出され、事件を解明する最後の部分では、本文のどこにその手掛かりが書かれてあるか、いちいちページ番号を脚注に記している。犯人にも意外性があるし、最初の殺人事件がじつはべつの目的のための予備的な工作にすぎなかったという筋書きは、クリスティの「ABC殺人事件」をちょっと思い出させた。クリスティの高名な作品は一九三六年の出版だから、本作はそれに七年も先行するけれど。

物語は二人の若い恋人が博物館でデートをする場面からはじまる。男のほうはレスリーといい、弁護士の卵で博物館の秘書をしている。女のほうはジョイスといい、叔母と一緒に暮らしている。じつはジョイスには大きな悩みがある。父の遺言により、彼女は二十五歳になるまで叔母と生活をしなければならないのだが、叔母はギャンブルに凝り、酒飲みで、生活がすさんでいて、ジョイスはたとえようのないストレスを感じながら同居生活をしているのだ。彼女は思わず叔母が死んだなら……と恋人にもらす。

するとどうだろう。夜中にデートから帰ってみると、本当に叔母が死んでいたのだ。さっそく医者が呼ばれ、検死の結果、叔母は殺人的な柔術の技によって殺害されたことが判明する。

いきなり柔術の技が出てきてびっくりするかもしれないが、この時期のパルプ小説やミステリには柔術がよく出てくる。それもおそるべく危険な格闘術として登場する。これを知っていればピストルなんかいらないくらいだ。

それはともかく、叔母の他殺が判明してからロス警視の活躍がはじまる。彼はジョイスがデートから帰るまでに、数名の人間が叔母の家に出入りしていたことをつきとめる。犯人はジョイスか、その数名の人間のうちの誰かだ。ジョイスは叔母を殺す強い動機を持っている。べつの一人は現場に残されたコップから指紋が検出された。またべつの一人は医学的な知識もあるし、叔母が殺される前に飲まされた薬を容易に手に入れることが出来る。この中でもっとも嫌疑濃厚なのが最後の男だったが、彼は事件が起きて数日後に自殺してしまう。彼は犯人で、良心の呵責に苦しみ自らの命を絶ったのだろうか。それとも……。

話はよく出来ていてまったく退屈せずに最後まで読めた。クイーンほどその推理にはっとさせるものはないが、しかしおなじように本格派の作品である。ちなみに本書が出た一九二九年はクイーンが「ローマ帽の謎」を出版した年でもある。

私がちょっと面白いと思ったのは、本書に視覚にまつわるイメージが頻出する点である。恋人二人がデートする博物館の「目玉」は、カメラ・オブスクラである。これはレンズを使って外界のカラー映像をスクリーンに映し出すものだ。ジョイスは映し出される映像が現実以上に美しいことに驚き、また次々と別の場面に移っていく、その早さに眩暈を覚える。またこの博物館には設立者が使っていた義眼が展示されている。他人が実際に使用していた義眼とは、これまた生々しく異様な迫力を持つ展示品である。さらに事件が起きる町に住むマートン氏は、アマチュア天文学者で、望遠鏡で天体観測をするのが趣味だ。また弁護事務所でしがない事務員をしているグルームブリッジ氏は筆跡の研究が趣味なのだが、その際顕微鏡を使って細かい筆跡の癖を特定する。そして真犯人の姿は博物館の管理人があやつるカメラ・オブスクラによって捕らえられるのである。このカメラ・オブスクラは、その迫真性でジョイスを驚かすときは、ヴァーチャル・リアリティを見せるヘッドセットに似ており、密かに行動する犯人の姿をとらえるときは、赤外線の監視カメラを思い起こさせる。

私はそれを読みながら、人間は技術という義眼を嵌めることであらたな視力を獲得してきたのだ、と考えてみた。新しい技術で新しい視覚を得ることは、自然にそなわっていた視覚を失うこと、義眼をはめることではないか。どうもこの作者は人間の文化と視覚性の関係についてなにか考えをめぐらしていそうな気がする。その思想がこの作品の中で十分に展開されているとは言えないけれども、しかし私はこういう知的な要素を持った書き手が好きである。

一つだけ残念だったことを最後に書いておく。それはロス警視の興味深い推理方法が充分に生かされていないことである。ロス警視は人物関係をダイアグラム化して表現する。捜査の初期の段階ではそのダイアグラムは単純なものだが、次第にそれは複雑なものに変化していく。私はそれがどんなふうに推理の役に立つのだろうと興味津々だったのだが、その手法に関する記述は途中から全くなくなってしまうのだ。本書はロス警視が活躍する第一作なのだが、二作以降ではこの手法がもっと活用されているのだろうか。私は存在の関係性ということを考えているので、ダイアグラムのアイデアには非常に関心がある。いつか暇を見てほかの作品も見ておかなければならない。