2016年1月17日日曜日

番外7 ノーバート・デイヴィス 「恐怖との遭遇」 


Rendezvous with Fear (1943) by Norbert Davis (1909-1949)

「恐怖との遭遇」には三回驚かされた。一回目ははじめて読んだときだ。あまりの面白さに私は夢中になって読んだ。こんなに夢中になって読んだのはポール・オースターの「ガラスの街」とかフィリップ・K・ディックの「虚空の目」以来のことである。二つ目の驚きは、「恐怖との遭遇」がまだ日本語に訳されていないことがわかったときだ。日本は翻訳天国などと言われることがあるが、それはまちがいであると確信するようになったのはそのときである。三つ目の驚きは、「恐怖との遭遇」がウィットゲンシュタインの愛読書であったという事実を知ったときだ。あれは頭を殴られたような衝撃だった。すぐにノーマン・マルカムが書いたウィットゲンシュタインの伝記を調べたが、確かに「恐怖との遭遇」の名前が出ている。ウィットゲンシュタインが愛読したミステリ! これは大事件である。規則正しい生活を送るカントが、「エミール」に夢中になったがために、いつもの時間に散歩を忘れてしまったというエピソードは、ルソーにとっての栄光だが、「恐怖との遭遇」をヴィットゲンシュタインが愛したというエピソードは、アメリカのしがないパルプ作家にとってこの上ない名誉である。しかもウィットゲンシュタインはこのパルプ作家にファン・レターを書こうとし、マルカムに住所を調べてくれとまで頼んでいたのだ。

「恐怖との遭遇」は私立探偵ドウンと彼の相棒でグレートデーンのカーステアズが活躍するシリーズの第一作である。ドウンは小太りで人の良さそうな顔をしているが、身のこなしはすばやく、冷酷な振る舞いも平気でできる男である。特技はけっして二日酔いにならないこと、だろうか。グレートデーンのカーステアズは「ペット」ではなく、立派なドウンの相棒である。彼はきわめて知性的かつ貴族的な犬で、ドウンが飲酒するのを快く思っていない。彼が飼い主であることを恥じ、散歩の際は彼の遙か前を歩いて、両者の間には何の関係もないようなふりをする。食事は高級なステーキ肉をわざわざ挽肉にし、そこに高級ビスケットを砕いて混ぜたものを食べている。しかしいざというときはドウンと見事な連携を取って犯人をやっつける。大きさが子牛ほどもある犬だから、もちろん相手を殺すことだってある。

「恐怖との遭遇」の筋はちょっとややこしい。大きく三つの出来事が重なり合って起きている。ドウンはアメリカで汚職事件を起こして国外に逃亡した男を、メキシコまで行って罠に掛け、アメリカ国内に呼び戻そうとする。これが第一の物語の筋を形づくる。彼は観光バスに乗ってメキシコの山奥の僻村へ行くのだが、そこには凶悪犯罪者が隠れていて、メキシコ陸軍が厳戒態勢を敷いていた。これが第二の筋を形づくる。さらにその村に滞在中、大地震が起きるのだが、そのどさくさにまぎれて観光客の一人、金持ちの娘が殺されるという事件が起きる。これが第三の筋となる。これらが絡み合いながら物語は複雑に展開するのだが、いずれの筋も最後にはきっちりした結末がつけられ、物語を操る作者の手際には本当に感心する。

物語の構成だけではない。人物描写もじつに見事なのだ。ドウン、カーステアズのほかにも学校の先生、セールスマンの一家、金持ちの娘、その友人、メキシコ陸軍の大尉や軍曹など、まことに多彩な人物が登場するのだが、それら一人一人が際立った個性の持ち主として描き分けられているのである。これはぜひ本書を読んで確認して欲しい。これだけ大勢の人物を、個性豊かに描き分ける作家はそういるものではない。

さらにノーバート・デイヴィスのトレードマークともいうべき会話の面白さ。二つだけ引用しよう。

(引用1)
 アマンダ・トレーシーはカーステアズを指さした。「あの竹馬にのった奇形児はどこで手に入れた?」
 「サイコロ賭博でね。それから彼は奇形児じゃない。立派な犬だ」
 「本当にいい犬は死んだ犬だけさ、ドウン。ペットを飼うのはとんまと変態しかいねえ。あんた、変態かい?」
 「いいや。とんまなだけだ」
 「そりゃよかった。あたしはとんまが好きだからね」
(引用2)
 「皆さんに紹介しよう。この女は自称セニョーラ・エルドリッジ」
 「本物の妻よ!」コンチャはいきどおって、金切り声を出した。「証明する書類もある!」
 「きっと偽造書類だろう」とペロナ大尉。
 「もちろんよ! カンペキに似せた本物よ!」
こういう強烈なギャグを放つ会話を書かせたら、おそらくノーバート・デイヴィスの右に出るものはいない。「恐怖との遭遇」は作者の美質がすべて発揮され、ひとつの物語として結実した奇跡的な作品である。ウィットゲンシュタインが惚れ込んだのも不思議ではない。

この作品は版によっては「山のネズミ」とか「死んだ金満家の娘」というタイトルになっている。私がアマゾンから出版した「ノーバート・デイヴィス傑作選」にはこの作品を含む長編二編と中編一編が収められている。