2016年5月7日土曜日

57 ヘンリー・ウエイド 「警官よ、汝の身を守れ」

Constable Guard Thyself! (1935) by Henry Wade (1887-1969)
 
前回レビューした「殺人は殺せない」の中にはメロドラマを批判するような一節が含まれていた。しかし私は「殺人をもってしても殺せない」それ自体の骨格を形づくっているのは、メロドラマにほかならないと指摘した。今回扱う「警官よ、汝の身を守れ」にもメロドラマという言葉が出てくる。イギリスのブロドゥベリという町で警察署長が射殺される。警察署の内部で、しかも大勢の警官がいるときに、である。犯人は目撃されていないが、数日前から署長を脅かしていた男がいるので、その人物がもっとも怪しいとされた。彼は二十年前に殺人の罪によって警察署長によって牢獄に入れられ、このほど二十年ぶりに出所してきたのである。つまりこの犯罪は、二十年あまりもうらみの炎を絶やすことなく燃やし続けた男の復讐である、というのが警察の見解だった。スコットランド・ヤードから捜査の協力に来たプール警部は、それを聞いて「メロドラマだね」と思わずつぶやく。

二十年とはモンテ・クリストもびっくりの復讐譚である。しかし本書は、前回レビューした作品とはちがって、メロドラマによって構成されてはいない。捜査がはじまるとじきに警察署長の机から、彼がとある業者から不正な金を受け取っていたことを示すメモが発見されたのである。とたんに事件は様相を一変させる。警察署長は、彼と共に不正をはたらいていた警察内部の誰かによって、口封じのために殺されたのではないか、という強い疑惑が生じ、最初のメロドラマ的なシナリオは放擲されるのである。実際第一のシナリオよりも第二のシナリオのほうが、殺人の状況をよりよく説明できる。

メロドラマにおいて物語を進展させるのは「偶然」である。物語が行き詰まると、あるいは主人公の人生が行き詰まると、いつも偶然が起きる。誰かと出会ったり、なにか事件が起きるのだ。そこからあらたな話が展開していく。近代的なミステリにおいて、物語を展開させるものは、演繹的な推論である。これはミステリの最後で犯人を指摘する際に用いられるだけではない。物語の展開を支えるメカニズムでもあるのだ。近代的ミステリはメロドラマを克服し、脱却しようとする「努力」の一つだったのである。

このブログの第一回のレビューで、私はキャロリン・ウエルズの「手掛かり」を扱い、こんなことを書いた。
「手掛かり」の一番の特徴は、物語が、当時まだ盛んに書かれていた大仰なメロドラマに陥ることなく、一歩一歩論理と事実の積み重ねによって進められていく点にあると思う。たとえばこんな具合だ。結婚式の前日に富豪の娘マデライン・ヴァン・ノーマンは椅子に座ったまま死んでいるところを発見される。すぐそばのテーブルに、「結婚相手はわたしを愛していないようだ」という書き置きがあったことから、医者や周囲の人々は彼女が愛情問題を苦に、短剣で胸を刺し、自殺したものと考えた。そして自殺という観点からそれまでの彼女の行為や人間関係が振り返られる。ところが短剣には血がついているが、それを握っていたはずのマデラインの手には血がついていないことが分かり、他殺の可能性が疑われるようになる。ここで事件の様相ががらりと変わるのだが、こういう論理による物語の推し進め方はミステリというジャンルの醍醐味である。
結婚直前の娘が愛情問題を苦に短剣で胸を刺し、自殺するなど、典型的なメロドラマの筋だが、しかしそれが演繹的な推論(短剣と血糊の関係)によって「否定」されるところに近代ミステリの新機軸が存する。

「警官よ、汝の身を守れ」は近代的ミステリの骨法によって書かれた立派な作品だと思う。新しい物的証拠があらわれるたびに事件の様相がころころと変わるところはじつに刺激的だ。本作はヘンリー・ウエイドの傑作の一つといってもいいだろう。しかし、物語は最後になってやはりそれが復讐譚であることをあらわす。最初に復讐譚のシナリオは否定されたのだが、紆余曲折を経て結局は(ひねりを加えた形でだが)そこに舞い戻ることになるのだ。これはどういうことを意味しているのだろう。近代ミステリは物語を駆動するエンジンとして演繹的推論という方法を編み出した。それは知的なすばらしいエンジンではあったが、メロドラマ的な構造から物語を完全に脱却させることはできなかったということではないだろうか。これは演繹的推論という駆動力の不完全さをいっているのではない。メロドラマ的構造が決定的な地点においてわれわれの想像力を規定していることを示しているような気がする。

本作はいろいろな美質に溢れている。警察署内における微妙な力関係、人間関係が巧みに描かれ、彼らの心情を的確に察しながら捜査を進めるスコットランド・ヤードのプール警部もじつに感じがいい。物的証拠が積み重ねられる過程も興味深いし、語り口も抑制がきいていて、それでいて過不足がない。ヘンリー・ウエイドは不当に評価されていない作家だと思う。