2016年5月25日水曜日

60 エミール・C・テッパマン 「自殺部隊 決死の任務」 

The Suicide Squad Reports for Death (1939) by Emile C. Tepperman (1899-1951)

パルプ小説の何が面白いのかと問われたら、私は一言「熱気」とこたえる。パルプ小説の中にも質の高いものはもちろんある。しかし「何語につき何セント」という条件のもとで仕事をしていたパルプ作家は、ひたすらタイプライターをマシンガンのように打ち鳴らし、その結果彼らの作品は粗製濫造と同義語と化すに至ったのである。話の内容に齟齬があったり、不自然なプロットの展開があったりするのは日常茶飯。そういうでたらめで、粗悪な作品になぜ惹かれるのかというと……パルプ小説が秘めている熱気に圧倒されるからである。あのように低劣で野蛮なエネルギーが、歴史のある時期に、あるジャンルの中で沸騰していたということは不思議なことのように思える。

テッパマンはパルプ小説作家の中でもとりわけエネルギーを爆発させている人である。彼が書くアクションものは最初の一行から最後の一行までアドレナリン大放出の冒険譚だ。そこには乱闘、銃撃戦、爆破シーンがこれでもかというほど詰め込まれている。
 ならず者の一人がバーに近づき、半分ほどウイスキーの入った瓶を取り上げた。瓶の首を握ってふりかざし、ジョニーの顔にたたきつけようとした。ジョニー・ケリガンは避けようともせず、ただ前に進みつづけた。
 酒場のどこかから拳銃が一度だけ吼えた。ならず者は手を上げたまま立っていた。ウイスキーの瓶が滑り落ちた。驚きの表情が彼の顔に刻まれていた。額の真ん中にあいた小さな穴から血がふきだし、彼はジョニー・ケリガンの足元にころがった。
こういう感じの描写が目白押しなのである。もちろんこればかりだったら逆に退屈してしまうが、そこはパルプ小説の雄テッパマン、物語に緩急をつけることもおさおさおこたりない。

ところでタイトルの自殺部隊とは何なのか。本作の中ではこんなふうに紹介されている。
 暗黒街の人間なら誰でもケリガン、マードック、クローのことを知っている。FBIの三匹の黒い羊だ。通常任務に携わることはなく、死がほぼ確実という仕事ばかりに送り出される。すこし前までは五人いたのだが、今はたったの三人だ。明日は二人になっているか……あるいは一人か……さもなければ誰もいなくなっているかもしれない。しかし一つだけまちがいないのは、この三人の悪魔はそう簡単に死なないということだ。彼らはただで殺されるような連中ではない。死ぬときは大勢の人間を地獄への道連れに引き連れていくことになるだろう。
要するにFBIのはぐれ軍団である。はぐれ軍団だから法律的な決まりなんて彼らには関係ない。捜査令状なしで敵地に乗り込み、相手を挑発し、撃ち合いや乱闘になれば大歓迎という手合いである。もちろん新聞は彼らのことを非難するが、FBIは困ったような振りをしつつも、彼らを手放そうとはしない。非合法な暴力が必要とされる場面で彼らは先陣を切って大活躍するからだ。本編においては、彼らは悪の組織「死の軍団」と対決し、ビルが二つほど崩壊したのではないかと思われるようなど派手な戦闘を展開する。

私はテッパマンがわりと好きでオーストラリアの Project Gutenberg にアップロードされている作品はだいたい読んでいる。何がいいのかというと、その暴力性である。たとえば本作では自殺部隊という形で国家の根源的な暴力性があっけらかんと示されている。日本の代議士で昔、自衛隊のことを暴力装置と呼んだ人がいたけれど、あれは社会学や哲学では普通に使われている用語で、自衛隊だけじゃない、警察だって国家だって根本的には暴力装置なのである。それが暴走すれば自殺部隊のように法的手続きをすっとばした、強権的で専制的な権力に化けるのだ。そして日本やアメリカの警察、FBI、情報機関が画策していることを見ればわかるが、彼らはまさに強権的で専制的な力を得たくてたまらないのである。私は自殺部隊をはぐれ軍団と呼んだが、じつははぐれ軍団こそFBIの本質をあらわしている。前にも言ったことがあるけれど、ジャンル小説はその途方もない馬鹿馬鹿しさに於いて、案外現実のありようを遠慮会釈なくとらえていることがあるものだ。