2015年8月27日木曜日

4 エセル・リナ・ホワイト 「恐怖が村に忍び寄る」

Fear Stalks the Village (1932) by Ethel Lina White (1876-1944)

この作品は何度も読み返し、じっくり考えた上で論評すべき作品である。それくらい内容のある見事な作品だ。

簡単に筋をまとめると、「平和に暮らしている村人たちに、悪意ある匿名の手紙が届くようになり、ついに死者が出る」という話で、同様の設定を持ったミステリとしてはアガサ・クリスチーの The Moving Finger がある。しかし Fear Stalks the Village は一九三二年の出版で、クリスチーの作品は四二年の出版だから、ホワイトのほうが十年ほども先行している。私が The Moving Finger を読んだのは何十年も前のことでいつか比較のために再読しなければならないが、Fear Stalks the Village のほうが圧倒的に理知的でアトモスフェリックに仕上がっていると思う。

舞台はイングランド南部の丘陵地帯にある小さな村だ。近くに鉄道はなく、かろうじて最近バスが通るようになったに過ぎない。しかしこの僻村には慈悲の精神が行き渡っているため、貧乏や失業で生活に苦しむ人はいない。上流の家庭は使用人不足で悩むことはなく、かりに家族の間に葛藤が起きてもそれが人々の目にさらされることはない。村人たちの付き合いは「ローズマリーのようにかぐわしく」、スキャンダルは「一角獣とおなじくらいにまれ」である。まるで地上の楽園のような場所だ。

この村の中心人物、村の女王と呼ばれているのがミス・アスプレイという六十代の老婦人で、慈悲の化身のような人物である。彼女のセカンド・ネームはヴィクトリアで、ヴィクトリア女王が当時勃興しつつあった中産階級に規範的価値を示す人物であったように、ミス・アスプレイも村人たちに模範的生活態度を教え、そうすることで村を dominate し、尊敬を集めているのだった。

村の中心人物としてもう一人、いや、もう二人名前を挙げておこう。スクーダモー夫妻である。彼らは「村の精神」と呼ばれ、夫は法律家であり、妻は村人の趣味の基準を決定するような人物だ。たとえば彼女が「お化粧は趣味がよいとはいえない」とのたまえば、村の人はみんな化粧をしなくなるのである。

子供もそんなに生まれなければ、死ぬ人も滅多にないという、まるで時間の止まった天国のような村に、あるときから匿名の、悪意ある手紙が届くようになる。その最初の被害者はミス・アスプレイ、村の女王だった。彼女は「おまえは自分が貧民街の最低の女よりすぐれた存在だとでも思っているのか」というなんとも嫌らしい手紙を受け取ったのである。

これがきっかけとなって、その後いろいろな人に同様の悪意ある匿名の手紙が届くようになる。平和な村の雰囲気は一変し、村人たちは交際を避けるようになった。中には自分が犯した過去の罪をばらされるのではないかと不安におびえる人々も出てきた。タイトルにある「恐怖」とはこの不安のことにほかならない。スクーダモー夫人はこの不安に耐えきれず、とうとうガス自殺をし、夫もその直後に銃で頭を撃ち抜いてしまう。

この匿名の手紙の書き手は誰なのか、それをイグナチウス・ブラウンという素人探偵が探っていく。殺人は起きないが、ホワイトらしい強いサスペンスに充ちている。

このスリラーが理知的な構造を持っていることは、冒頭において、村の内部と外部が対立的に描かれていることからもわかるだろう。村はあたかも中空に浮く球体のように、それ自体で自足しており、その内部にいる者にとっては、村が世界のすべてであり、村の風習は自然であり、当然であるように感じる。しかし外部から来た者、つまりバスに乗って村に来た者にとっては村のすべてが自然・当然に見えるわけではない。村の人々には見えないものが、外部の人間には見えることがあるのである。そのような外部の視線によって、最初は地上の楽園のように描かれていたこの村社会にはある盲点が存在していることがわかるようになる。

しかしこの作品が問いかけるいちばん大きな問題は次のようなものだ。もしも村が善意や慈愛に満ち、時代に流されない堅固な道徳観念に支配されているのなら、匿名の手紙にあらわされる悪意はどこから来たのか。

ホワイトが考えているのは、それは内部から来る、ということだ。まさに善意や慈愛や道徳の内部からそれとは逆のものが噴き出してくるのである。「村の精神」は、「村の精神」とは相容れないある出来事から生まれてきたのであり、その不都合な起源を隠蔽することで存在しつづけていたのである。「村の女王」ミス・アスプレイの慈善の精神も、その根底にはパソロジカルでグロテスクななにものかが身を潜めていることがわかる。

私には犯人を究明する推理の過程が、善意や慈愛の論理構造を腑分けし、そこに隠された、ある種のゆがんだ形を剔抉する過程のように思えてしかたがなかった。これは単なるサスペンスではない。サスペンスの形で哲学をしているのである。

しかし私は「単なるサスペンスではない」と言いながら、同時にこれこそミステリの正統的な主題ではないかとも思う。私はミステリの源流の一つとされる「オードリー夫人の秘密」を数年前に訳してアマゾンから出版した。その解説で書いたことだが、オードリー夫人は、ヴィクトリア朝時代における女性の最高の徳を有しつつ、同時に殺人者でもあるという、両極端が一致する奇怪な存在なのである。この奇怪な両極端の一致は、ヴィクトリア朝時代における女性の理想像なるものが、じつは内的に破裂していることを示している。Fear Stalks the Village もまさにそのような内的な破裂を問題にしているのだと思う。いずれの作品もその結末は悪が外部に追いやられ、内部の秩序が回復されたように書かれているが、そのような単純な図式ではこの作品の可能性を読み解くことはできない。

Fear Stalks the Village はホワイトの作品の中でも、またミステリの歴史の上でも、なんら注目を浴びていないようだけれど、いったいどういうことだろう。私の目にはとてつもない問題作と見える。それどころかホワイトの作品全体の読み直しを迫るもののように思える。