2016年9月17日土曜日

86 ジョージェット・ヘイヤー 「なぜ執事を撃つのか」

Why Shoot A Butler? (1933) by Georgette Heyer (1902-1974)

超大物作家の登場である。ロマンスにしろミステリにしろ伝奇小説にしろ、ヘイヤーのあの堂々たる書きっぷりにはいつも圧倒される。天性のストーリーテラーなのだろう。

本編もヘイヤーらしい悠揚迫らざる筆致で殺人事件を展開させている。なによりも良いのは登場人物が誰も彼も生き生きとしていることだ。それぞれ非常に強い個性を持つ存在として巧みに描き分けられている。われわれは探偵役の法律家アンバーリーを、気取った鼻持ちならない貴族、しかしその見かけの背後に情熱を秘めた男として、くっきりした像を思い浮かべることができる。彼の伯父は人のいい、どこか抜けたところのある、今風の言葉で言えば「ゆるい」キャラクターの持ち主である。伯母のほうは心優しい貴婦人なのだが、ぼんやりしているようで鋭い観察力を持ち、また貴族らしい(しかし滑稽な)高慢さをその挙止のはしばしに見せる。事件が起きる僻村の警察官は……という具合で、本編を読む大きな楽しみのひとつは、こうした人物たちがいかに「らしさ」を発揮するかという点にある。

第二に語りが含むユーモアがすばらしい。とりわけアンバーリーが伯父・伯母と交わす会話は爆笑ものである。たとえば伯父・伯母の屋敷に夜間、泥棒が入り、アンバーリーと伯父が被害の状況を調べている。そこへ伯母のマリオンが寝室から降りてきて賊にひっかきまわされた書斎へあらわれる。
 「あら、わくわくするわね。ひどい荒らされよう。片付けをする召使いがたいへんだわ。どうして書斎を狙ったのかしら」
 アンバーリーが頷いた。「伯母さん、そこなんですよ、問題は。ほかの人は問題と思わないだろうけど。ところでなんで顔に白い漆喰を塗っているんです?」
 「フェイス・クリームよ。わたしくらいの歳になると必要になるの。おかしい?」
 「おそろしく不気味ですな」
泥棒に入られて「わくわくするわ」もないものだが、こういう落ち着き・世間離れしたところが貴族なのであろう。またこうした視覚的なユーモアや会話のテンポを見ていると、映画の影響を大きく受けているように感じられる。

逆につまらないところをあげると、それはまさに長所の裏返しである。人物像が類型化しているために怪しい人間は怪しく描かれてしまうのだ。ミステリの常道としていちばん怪しく描かれている人物は犯人ではないから、真犯人はきっとつぎに怪しい人間にちがいない。そうすると……というように考えると、犯人がわかってしまうのである。

もう一つ気になるのは、偶然の出来事がやや多すぎるのではないかという点だ。これは私が説明しなくても気をつけて本書を読んでいただければわかることだし、ネタバレがいやなのでこれ以上は書かないが、しかし偶然を多用するのがメロドラマの特徴の一つであったことは思い出しておいてもいいだろう。

そう、類型的な人物像、メロドラマ的な筋の展開。ヘイヤーは映画的な描写や、スピード感のある語りで新しいミステリをつくろうとしているけれども、しかし私は本質的なところでまだ古い型を残しているのではないだろうか、と思うのだ。いや、案外、だからこそ多くの読者を惹きつけたのではないだろうか。日本でも「水戸黄門」みたいな古い、型にはまったドラマが受けるように、たいていの人は物語に対して保守的な態度を持っているものだ。モダニズムのような実験は、一時的に少数の人々を熱狂させるが、すぐに堪えられなくなって捨てられてしまう。

いやいや、話を戻そう。本編はこんな具合にしてはじまる。ある夜のことだ。法律家のアンバーリーは僻村に住む伯父・伯母そして従姉妹の家を訪ねて寂しい道路を車で進んでいく。突然ヘッドライトの中に、車と、そのそばに佇む女の姿が浮かび上がる。アンバーリーは車が故障でもしたのだろうと、親切心から車を停める。ところが、停まっている車の中には銃で撃たれた男の死体があったのである。女は、自分は殺人とはなんの関係もないと主張するが、なぜこんな辺鄙な場所に来たのか、殺された男とどういうつながりがあるのか、詳しいことを語ろうとはしない。状況から見て女が殺人犯でないことは確かだと判断したアンバーリーは彼女をそのまま残し、村へ行って警察に通報する。その結果わかったのは殺された男がその村の金持ちファウンテン家の召使いだったということだ。しかしなぜ彼は殺されたのか。アンバーリーは警察と共にこの謎を解明していく。

謎解きとしてはさほどの出来ではないが、すでに述べたようにこれはストーリーテリングを楽しむべき作品である。十九世紀に発達した、読者を楽しませる技術が、いっそう洗練された形でヘイヤーの作品の中に結実している。彼女の作品はもっと日本に紹介されてもいいと私は思っている。

(お断り)
最近、記事のアップロードが頻繁だが、実はもう百冊のレビューは終わっている。始めてちょうど一年で予定の冊数を読み終わったのである。多少書いたものに手を入れるので(忘れなければ)二日か三日おきにブログを更新していくつもりである。

2016年9月16日金曜日

番外17 行為の外形

番外17 行為の外形

われわれは行為の意味を行為者の意識・意図に問い尋ねる習慣がある。いたずらした子供に向かって父親が「なぜこんなことをした」と問うように。

私は谷崎潤一郎の短編「途上」の読解を通して、谷崎が行為の意味と行為者の意識をラディカルに切断していると考えた。(番外6参照)意味を意識に問うてはならない。意識は偽りを言う、あるいは誤認するものだからである。行為の意味を知るには、意識とは切りはなされた「外形」としての行為に着目しなければならない。

「外形」の問題は奇妙な広がりを持っている。私が外形について考えはじめて最初に気づいたのは次のようなことである。私は幽霊を信じていない。幽霊を信じる人がいたら一笑に付すか、軽蔑するだろう。ところが真夜中に一人で誰もいない田舎道を歩いているとき、私は平気でいられない。草の揺らぎや木の影に胸が騒ぎ、あきらかに微かな怖れを感じているのである。私はふだんは幽霊を断固否定する。そんなものは露ほども信じていない。しかし夜の田舎道を歩く私を、行為の外形でもって判断するなら、私は幽霊を信じているのである。

ここには奇妙に歪んだ「信」の形がある。私は幽霊を信じていないが、しかしあたかも信じているかの如く行為している。もしも私が「お前が夜の田舎道を歩く様子を見ていると、まるで幽霊を信じているみたいだ」と言われたら、「いや、それは木が人の形に見えたからだ」とか「急に枝が揺れてびっくりしたのだ」とか言い訳したり、「そんなことはない」と相手の言うことを不満そうに否定するだろう。

通常、信念と言えば、われわれは宗教の信者のことを考える。「私は~の教えの信者である。信者の一人であることを誇りに思う」というように彼はおのれの「信」を自覚している。しかし私があげた例ではそうではない。夜の田舎道を歩く私は「信」を持っていない。だが、「信」を持っているかのように振る舞う。この点に関しては Robert Pfaller が On the Pleasure Priciple in Culture という秀逸な本を書いているので参考にしてほしい。

第二に「責任」の問題がある。行為を外形としてみるとは、行為を意図と切りはなして見ることだが、しかしそれは行為の主体から行為の責任を免除するものではない。それどころか、主体の意図せざる結果が行為から生まれた場合でも、その責任は主体にあるのである。「途上」の例で言うなら、会社員は妻を殺害する意図はまったくなかったかもしれないが、その行為を外形において見るなら、偶然を利用して妻を殺害する行為に等しい。そのようなものとして彼は自分の行為に責任があるのである。「私はそんなことを意図して行為したのではない」という言い訳は通用しないということである。ウエーバーが「職業としての政治」で言っている責任倫理とは、外形としての行為に対して政治家は責任を負うということである。

第三に相反物の一致の問題がある。「途上」の会社員の場合、妻への愛情と妻への殺意は二つの異なるレベルにおいて合致している。会社員は自分の行為を妻への愛情を示すものだと「意識」しているが、探偵はそれを外形としてみたとき、妻への殺意を示すものだと解釈してみせる。逆に言えば、外形としてどれほど忌まわしい行為であったとしても、その行為者の意識にその意図を問うたならば、なにやら美しい理屈を聞かされるかも知れないということである。外形としての残忍性と主体の内面的洗練は混在しうる。連続殺人犯の心中に詩的な宇宙が存在していてもまったく不思議はない。逆に立派な業績を残している学者が、その思想を実現しようとしてホロコーストに協力することもある。しかし精神分析的な知見に寄れば、主体は嘘をつく、あるいは誤認するのである。そしてすでに言ったように主体は外形としての行為にこそ責任を取らなければならない。

第四に外形の「物質性」の問題がある。このことに気がついたのはスラヴォイ・ジジェクを読んでいるときのことだった。ジジェクはその書籍や講演で、何度もチベットのマニ車に言及している。マニ車とは経文を納めた円筒形の器具で、これを一回転させれば一回経文を読んだことになるのだ。マニ車を回すあいだ主体はなにを考えていてもいい。あるいはどんな行為をしていてもいい。とにかくマニ車を回していれば、彼は祈っていることになるのだ。なんなら風車式の仕掛けを作って自然の力でマニ車を回転させ、自分はどこか別の場所へ行き、思いきり猥褻な行為にふけってもいい。それでも彼は祈っていることになるからだ。外形としての行為はこのように物質によって代替されうる。

第五の問題はこの代替性にかかわるものだ。行為は代替されうる。「よろしく言っていてくれ」と挨拶を他人に任せることもあるし、掃除をルンバにさせることもあるし、ミステリ小説では自分が敵を殺す代わりに、いろいろな仕掛けに彼を殺させることがある。とりわけ行為がモノによって代替されるとき、行為の外形性は際立って見えてくる。そして行為を外形としてみるとき、肝腎なのはそれが代替されたものではないかと考えることである。「途上」の会社員の場合、彼の妻に対する行為は、たとえば彼の愛人が望むことを彼が代替して行っているのではないかと考えることだ。私はこの問題をスチュアート・ゴードンのホラー映画「ドールズ」(1987)に即して考えたことがある。主人公である小さな女の子の行為、空想、発話をその外形において見るならば、それらは母親(継母ではなく)の欲望を代替していることがわかる。我々が語るとき、問うべき質問は、誰が語っているのか、そしてどこから、というものでなければならない。

第六の問題。「途上」においては「妻は死ぬまで夫の暖かい愛に包まれて人生を送った」というドラマを、探偵が外部からデコンストラクトする。このとき探偵は物語の外部にいることになる。行為を外形としてみるということは、物語の外部に立つことでもある。あたりまえのことだが、本格推理小説が成立するにはこの外部という立場の確立が必要になる。二十世紀前半において、ミステリはメロドラマという形式を蝉脱して、論理性を物語の駆動力にする近代的なミステリの形式に移行したと私は書いてきた。それを外形性の問題から言い直すと、メロドラマを外部から見る視点を確立したときに近代的ミステリは誕生した、ということにほかならない。私はこの点に注意しながら残りのレビューを行っていくつもりである。

2016年9月14日水曜日

85 アンソニー・バークレイ 「服用すべからず」 

Not To Be Taken (1938) by Anthony Berkley (1893-1971)

アンソニー・バークレイである。しかも本格的なパズル・ストーリーである。面白くないわけがない。最終章の直前にはこうある。
 すべての証拠は読者の目の前にある。ここで一息ついてつぎの質問に答えてみていただきたい。
 1 ジョン・ウオーターハウスを殺害したのは誰(あるいは何)か。
 2 ジョン・ウオーターハウスはいかにしてヒ素を飲むことになったのか。その理由は。彼が死に到る過程を簡単に示してもらいたい。
 3 ダグラス・シェーウェルの語りから推理できること、手掛かりをできるだけあげてもらいたい。
 4 決定的な手掛かりはあるだろうか。あるとしたら、それは何か。
こういう堂々たる挑戦を受けて心ときめかないミステリ・ファンはいないだろう。しかし本書は論理ゲーム以外のところでも私を楽しませてくれた。

物語をざっと整理すると、ドルセットシャー州のアニーペニーという村で、仲のいい六人の人間がある日集まって小さなパーティーを開く。その席で主人役のジョン・ウオーターハウスが急に具合が悪くなり、結局急死してしまうのである。医者は病死と判断したけれど、ジョンの弟が無理矢理死体を検死解剖させ、その結果、臓器からヒ素が検出された。いったい誰がジョンにヒ素を飲ませたのか。そしてその方法はいかに。

事件自体はきわめて単純で、事件が起きてからは審問の様子が詳しく描かれるだけである。つまりジョンが急死するまではパーティーがあったり、医者が診療したり、看護婦が被害者の容態を見たりとあわただしく人が動くが、その後はアクションらしいアクションがとくになにもないのだ。そして審問がジョンの死を事故死と結論づけてからすぐあとに、本書の語り手であるダグラスがふと事件の真相に気づくのである。

アクションがないのでは退屈ではないか、ミステリを読まない人ならそう思うかもしれない。いやいや、そんなことはない。何度もこのブログで書いたことだが、近代的なミステリは一時代前のメロドラマを脱却したところに成立する。偶然とかセンセーショナリズムによって駆動される物語から、論理的展開と様相の変化を主眼にした物語へと移行したのである。論理的展開というのはわかりやすいが、様相の変化とはどういうことか。たとえば被害者のジョンは、殺される以前は気持ちの優しい男として描かれている。しかし彼の死後、警察やスコットランド・ヤードが捜査を開始すると、彼がこっそりとイギリス軍のためにある種のスパイ行為をはたらしていたこととか、妻に知られぬように情婦をかこっていたことが判明するのである。彼のイメージは事件の前後でがらりと変わる。

またジョンの妻も同じように印象が変化する。彼女は病弱で寝込んでばかりいるのだが、本当は彼女は身体的になんの異常もかかえていないことが事件後にわかる。彼女の病気は周囲の注意を自分に惹きつけるための贋の病気、精神的な病気なのである。さらに彼女にも恋人がいて、なんと夫のジョンもそのことを承知していたことがわかってくる。素朴な夫婦のようにみえたのが、じつは仮面夫婦だったのである。

もちろん様相の変化の最大のものは、物語の最後、犯人を指摘する場面である。もっとも罪のない見かけの人間が、もっとも罪深い人間に変貌する瞬間である。ここでは論理的展開と様相の変化が手を取り合って強力に作動することになる。

とにかく近代的なミステリはこういう様相の変化を描くがゆえに、とくにアクションがなくてもよいのである。本作はその模範的な例と言えるだろう。

そのせいだろうか、作中人物たちは、ジョンや妻が、彼らが思っていた人物とはまるで違う人物だったことにたいする感慨のようなものが何度も語られる。
 不思議というか、ほとんど怖ろしいことだね。ぼくらは、友だちがぼくらに抱いているイメージとはまるで違う存在なんだよ。
 ぼくらは誰かが自分はこういう人間なんだというと、すぐああそうなのか、そういう人なのかと思ってしまうよね。ジョンは自分がどういう人間かということをよくしゃべっていた。その結果、ぼくらは彼はそういう人なんだと、自動的に思い込んでしまったのさ。だけどそれはほとんどが間違いだった。
 ジョンの奥さんには君ら全員、だまされていたんじゃないか? まあ、驚くようなことじゃないよ。彼女自身、自分にだまされていたんだから。永年にわたって彼女は自分をだましていたんだ。神経症だな。心理学的に面白いケースだ。
 治る見込みのない哀れな病人としてぼくらはジョンの妻を扱い、機嫌を取り、同情してきたのに、じつはぼくの妻とおなじくらいぴんぴんしていて、ぼくらの同情はすべて無駄についやされたのだ、などということを信じることは簡単ではなかった。
メロドラマにおいては登場人物は多くの場合ステレオタイプ化されている。ディケンズの小説に登場する人物を見るとわかるが、同じ人物は何度も同じ形容詞で描写され、その人固有のイメージを形づくっている。陽気な人間はどこまでも陽気であり、吝嗇な人間はどこまで吝嗇である。しかし近代的なミステリにおいてはそうした人間の認識はがらりと変化する。われわれは他人のことをこうだと断定的に語ることはできない。それどころか下手をすると自分のことすらどういう人間かわからないのだ。ここに近代的ミステリと心理学・精神分析との接点がある。

ついついミステリ論を展開してしまったが、バークレイはさすが黄金時代の立役者だけあって、そういうことを考えさせる深みのある作家なのである。

2016年9月11日日曜日

84 レスリー・フォード 「ウィリアムズバーグ殺人事件」

The Town Cried Murder (1939) by Leslie Ford (1898-1983)

もちろんこの本の中では人が殺され、その犯人が突き止められる。しかし私の見るところ、事件それ自体は本書の中心的主題ではない。本当に問題になっているのは新旧二つの考え方・態度の対立である。

物語の舞台はアメリカ、バージニア州のウィリアムズバーグ。誰もが知っている歴史的な町だ。ヤードレー一家はこの土地の由緒ある旧家のひとつだった。
 しかし南北戦争以後、ヤードレーの一族は没落の一途をたどり、一九二〇年代後半には借金に苦しむ生活を送っていた。

ちょうどそのころ、レストレーション社がウィリアムズバーグの土地や家屋の買い取りをはじめていた。レストレーションと聞くとリチャード2世の王政復古を思い出すが、このレストレーション社は、私が調べたことが正しいなら、ロックフェラーが金を出している会社で、ウィリアムズバーグの古い町並みを保存する目的で設立されたものだ。会社は家屋を買い取るが、住人にはそのままそこに住んでいてもらう。家屋の修理が必要なら、会社はその費用も出す。住人にとっては棚からぼた餅みたいな話である。実際大勢の人がレストレーション社の進出を歓迎していた。

しかしヤードレー家のオールド・ミス、メルシナはこれに反対だった。ちょっとわかりにくいかもしれないが、メルシナはヤードレー家に強い誇りを抱く、因習的な女であり、いくら金に困っていても、屋敷をどこの馬の骨ともしれない会社に売るなんぞ、断じてできることではないと考えていたのである。

しかしヤードレー家は借金がかさみ、屋敷を手放さなければならないくらい財政的に逼迫している。レストレーション社の助けを借りず、メルシナはどうやってこの窮状を切り抜けようというのか。彼女はまさに十九世紀的な手を使おうと考えていた。二十歳になったばかりの彼女の姪フェイス(彼女の兄の娘)を金持ちの男に嫁がせようというのである。彼女は姪にむかってこんなことを言う。「わたしたちはヤードレー家のためにみずからを犠牲にしてきました。今度はあなたが自分を犠牲にする番です」と。

さて、本書の語り手であるルーシーという女性もヤードレー家の一員で、年齢もほぼメルシナとおなじくらいだと思われる。しかし彼女は昔からメルシナとは考え方が逆なのだ。ルーシーはレストレーション社の事業を福音のように感じるし、フェイスが好きでもない男、しかも二十五歳も歳上の男と結婚することに大反対である。そして冒頭に述べたようにメルシナ/ルーシーにあらわされるこの新旧の考え方の対立こそ、本書のいちばんの読みどころである。

二十世紀の前半に書かれたミステリにはこういう新旧、つまり十九世紀的・ヴィクトリア朝的態度と、近代的・合理主義的態度の対立がしばしば描かれるのは、ミステリというジャンル自体が古いメロドラマから新しい物語形式に蝉脱しようと努力していたからではないだろうか。こういう作品では古い因習的態度がよくメロドラマにたとえられるが、本書においても「由緒ある一族が借金を払うために好きでもない男と結婚する話なんざ、古いメロドラマにはいくらでもでてきますよ」などという台詞が登場する。

話を思い切りはしょるが、結局のところ古い考え方は駆逐される運命にある。メルシナはフェイスにむかって「家のために行動しろ」と言うけれど、メルシナの兄、つまりフェイスの父は娘にむかって「自分がいちばんいいと思うように行動しなさい」と言うのである。フェイスは父の言葉に従って、事件後、自分が本当に愛する人と結婚することを決める。面白いことに、語り手のルーシーも、事件後、若いときに「家のために」結婚をことわった男性と再会し、彼から「今度は逃げないでくださいよ」と優しく言われるのである。「家のために行動しろ」とはずいぶん古くさい因循な考え方だが、それが否定され、個人の心に忠実であることの大切さが最後に示されるのである。ルーシーは昔、家のために失った恋をもう一度回復するわけで、なるほどレストレーションにはそういう意味もかけてあったのかとちょっと感心した。

しかし私はこのハッピーエンディングをハッピーエンディングとして読むことはできなかった。古い考え方が否定され新しい考え方があらわれる。だが、その新しい考え方とはなんなのか。ウィリアムズバーグの町がロックフェラーの財力によって買われていくように、十九世紀的なものは二十世紀的な資本主義体制にのみこまれていったのではないか。日本の場合を考えてもそうだが、「イエ」というくびきから人々を解放することが、いまわれわれが見ている資本主義への第一歩ではなかったのか。作者のレスリー・フォードは決して資本主義(レストレーション社)のことを問題にはしていない。しかし無意識のうちに新しい考え方なるものが、資本主義的な枠組みの中にあることを示しているような気がする。自由を手にしたと思う瞬間は、今までと異なる桎梏の枷をはめらる瞬間なのである。だからわれわれは革命の成就したその日より、「次の日の朝」に気をつけなければならない。

2016年9月10日土曜日

83 エイーダ・E・リンゴ 「テキサス殺人事件」

Murder in Texas (1935) by Ada E. Lingo (?-?)

まるで名前を聞いたことのない作者で、インターネットで調べても、どんな経歴の持ち主なのか、ほかにどんな作品を書いているのか、いっこうにわからない。ところが驚いたことに、「テキサス殺人事件」は明らかに水準以上のすぐれたミステリなのである。

石油を発掘して大金持ちになったテキサスの富豪が殺される。その町の若き女性新聞記者であるジョーンは、殺された男の娘に頼まれて、探偵を雇うことになる。それがリチャード・フィールズという青年で、まだキャリアは浅いが、いくつかの難事件を解決していてその名は広く知られているらしい。

ジョーンとリチャードはコンビを組んで事件の解明にあたる。どうやら金持ちの男は女性関係や仕事上の不正な取引をネタに脅迫を受けていたらしい。脅迫の事実がばれることを怖れて、脅迫者は富豪を殺したのではないか。しかしいったい誰が彼を脅していたのか。それを探る最中にも第二の殺人、そして殺人未遂と、被害者が増えていく。

筋は案外単純なのだが、非常によくできている。なにがよいのかというと……先ず第一にペース配分。ミステリには基本的に二つの要素が欠かせない。事件と、その後の捜査である。この二つは読者に全く異なる反応を与える。事件が起きるとき、われわれは非常な緊張感を感じる。それはある種、爆発的で集中的で、こう言ってよければ詩的な瞬間である。一方、捜査の過程は事実の整理、論理の構築についやされる、持続的な、散文的な時間帯なのである。この二つの異なる時間をうまく配分せず、たとえば捜査の過程がやたらに長いと、このブログで扱ったアン・オースチンの「黒い鳩」のように、読者の脳に余計な負担をかけることになったりする。しかし「テキサス殺人事件」では、謎の提示とその解明に向かう道筋がじつにうまく配分されていて飽きることなく、気持ちよく読むことができる。ミステリの展開のさせ方のお手本を示しているといってもいいだろう。L.P.ハートレイの The Go-Between は物語の展開のさせ方が完璧で、作家を目指していた人々は、その語数を勘定してペース配分を学んだという。本書にそこまでの完璧さはないが、しかし充分に参照するに価する出来である。

第二にすばらしいのは、登場人物の性格がうまく描き分けられているという点である。探偵のフィールズは溌剌とした、頭の切れる青年だが、同時に未熟さももっていて、狡猾な容疑者をうまく問い詰めることができずにいらいらしたりする。新聞記者のジョーンズは、いかにも現代的な若い女で、行動力があるが、大不況という現実からなにがしかの世間智を学び取っているのだろう、冷静さも兼ね備えている。彼女の同僚記者ミッチェル・ホワイトは善人なのかもしれないが芯の弱さを持った男として描かれ、ジョーンズ母娘はそこはかとなくふしだらな感じをかもしだしており、保安官のジム・リードはこれぞテキサスの人間といったふうなマッチョなしゃべり方をする。クリーニング屋の黒人女すら、脇役に過ぎないのに、印象深いのである。この作者は一筆書きのように人物の特徴を的確におさえ、表現する力を持っていると思う。

そしてもう一つ感心したのは、女性作家らしい生活の細部への目が光っている点だ。とくにジョーンが自分の家でデザートを食べる場面や、砂嵐に備えて人々が家のまわりを片づける場面に私はそれを感じた。

そして最後にこの一節を紹介しておきたい。ジョーンズが新聞社の編集長の部屋に入ると、そこには当時のミステリの名作が並んでいたのである。
 ジョーンはケイ・クリーヴァー・ストラーンの最新スリラーを手に取り、ミニョン・エバハートの「白い鸚鵡」、フランシス・アイルズの「犯行以前」、そしてレスリー・フォードのすばらしい「メリーランド殺人事件」に目を留めた。ミセス・ラインハートの「アルバム」も見つけたが、そのまま持って行けないことが無性にくやしかった。サタディ・イヴニング・ポストに連載されていたのだが、彼女は途中までしか読むことができなかったのだ。
ちょっと調べたら、この中で翻訳が出ているのはアイルズの作品だけではないか。日本が翻訳天国だなどというのは大嘘である。しかしストラーンの最新作となっているのは何という作品だろう。The Meriwether Mystery (1932) だろうか、それとも The Hobgoblin Murder (1934) だろうか。この人の本は前から読みたいと思っているのだが、なかなか手に入らないのである。そしてレスリー・フォード。なんという偶然だろうか。これは次にレビューしようと思っていた女流作家である。作品は「メリーランド殺人事件」ではないけれど。

しかしそれは、まあ、どうでもいい。本作「テキサス殺人事件」は意想外によい作品で、英語が読める方には一読をお勧めする。

2016年9月6日火曜日

82 アルフレッド・ガナチリー 「死者のささやき」

The Whispering Dead (1920) by Alfred Ganachilly (?-?)

ジャンル小説を読んでいると、ときどき無用に筋が引き延ばされた作品に出合うことがある。ある部分までは一定の緊張感をたもって書かれているのだが、急にその緊張の糸が切れ、しどけなく、だらだらと興味のない場面がつづくのである。おそらく出版社に、これでは単行本としては短すぎるなどと難癖をつけられ、作者が予定にはなかった部分を付け足したのだろう。このような出版条件というのはいつの時代にもあるものだ。また、外的制約がかならずしも悪い方に働くとは限らない。たとえば十九世紀には三巻本の長い作品を書くことを小説家は求められたが、才能ある人々はこの条件に対応して、細密な心理描写の技術を発達させていった。

しかしながら一定の長さに達するために、ただ分量を水増ししたという作品も少なからずある。「死者のささやき」もその一つと言わざるを得ないだろう。物語の三分の二は、なかなか見事な推理ものとなっているが、残りの三分の一は、あきらかにそれまでとは質の違う追跡譚になってしまっている。犯人を特定する推理の過程はとっくに終わっているのだが、さらに警察が犯人を追跡する様子が長々と付加されているのである。この作者の文章には荒々しい簡潔さとでもいうべき、不思議な味わいがあって、悪くないと思っていただけに、この構成は残念だった。

事件が起きるのはチリのドイツ大使館である。ある朝、大使と秘書が書記官一人を残して大使館を出た。しばらくすると大使館が猛火に包まれ崩落する。火が消し止められてから消防隊が捜索すると、一人の男の死体が出てきた。大使、秘書、チリ警察は黒焦げの男を書記官であろうと考えた。

この小説の説明が曖昧なのではっきりしたことは言えないのだが、どうやらドイツの大使館はある地方の人々が自分たちの意にそまぬ振る舞いをしたため起訴して牢屋に入れてしまったらしい。その結果なぜか書記官に脅迫状が送られるようになった。彼は火事のあった当日にも脅迫状を受け取っており、怪しげな人間も見ている。そうした状況から考えて、彼に遺恨を持つ誰かが彼を殺し、その後大使館に火を放ったのだろうと考えられた。

しかし警察の中に一人だけ、死体は書記官ではあり得ないと考えた刑事がいた。彼は死体の死後硬直と出火の時間から論理的に死体が書記官ではないと判断したのである。彼がこの推理を証明する過程が、先に私がなかなか出来がいいと言った最初の三分の二である。実際この部分は非常に面白い。一九二〇年に書かれた本作は、まだまだナイーブな謎しか構成していないが、しかし謎を解明する過程、たとえば刑事が推理を組み立て、それを挫折させるような事実にぶつかり、さらにそれを乗り越えて彼が犯人を追い詰める、といったパターンは、現在のもっともすぐれたミステリとなんら変わるところのないものである。この部分は書かれた年代を考えて私は高く評価する。

刑事が決定的な証拠をつかんで真犯人が確定すると、今度はアンデス山中を逃亡する真犯人を刑事が追いかける場面に移行する。空気の希薄なアンデスの山道を馬で移動することがどれほど過酷なことか、それがよくわかる描写になっているが、前半と較べると明らかに質の違う物語が展開されている印象だ。まるでミステリの後にアドベンチャーをくっつけたみたいなのである。

こういう大きな欠点はあるが、しかしこの作品のいちばん最後にはちょっと面白いコメントが付されている。ネタバレにならないように抽象的な言い方をするが、それは犯人の犯罪行為、つまり個人が行う犯罪が、国家の行う犯罪の縮小再生版であるという指摘である。犯人は母国の対外政策、つまり帝国主義的哲学に感動し、自分の振る舞いもそれに合わせようとした。他国の人々に対する彼の態度は、まさに彼の国が外国に対して取る(帝国主義的)態度とおなじなのである。以前このブログでヒュー・ウオルポールの「殺す者と殺される者と」を扱ったとき、いじめられていた人間がいじめていた人間を殺すという個人と個人のレベルの物語は、帝国主義的競争に遅れていたドイツが軍事力をつけ、先行するイギリスを脅かすという、国家間のレベルの物語と相同性を持っていると書いたが、おなじような個と国家のあいだの照応がこの作品にも見られるのである。私が訳したフォークナーの「雲形紋章」においても帝国主義的イギリスの姿がブランダマーという主人公に重ね合わされていた。私はこういう作品を集めて、いつかまとめて論じてみたいと思っている。最近日本の障害者施設で大勢の入所者を殺害した男がいるが、彼は自分の行為は国家の意を受けたものであると考えている。こうした事例は世界を見まわすとたくさんあるのであって、私はそういうことが起こる構造、隠微な形で働いている国家と個人のあいだの力の関係について興味があるのである。

2016年9月2日金曜日

81 ヘレン・メーブリー・バラード 「殺人のメロディーにのせて」

To the Tune of Murder (1952) by Helen Mabry Ballard (?-?)

久しぶりに五十年代の作品を読む。バラードという人は聞いたこともなかったし、ざっと調べただけだが伝記的な事実もまるでわからなかった。しかし本編を見る限り、小説家としてかなりの資質を持った人である。本書は単に殺人事件の発端から犯人が捕まるまでの経過を追った作品ではない。

本書を読んで最初に気づくのは、登場人物のあいだに世代差が歴然と設定されていることである。一つのグループはジェニー・コーベットやメアリ・レノルズに代表される、ヴィクトリア朝的な道徳観、人生観をもった人々である。メアリはクイーン・メアリと綽名されるくらい古い考え方に凝り固まっているし、両者の部屋はいずれもヴィクトリア朝趣味ゆたかに飾られている。しかし彼らはコーベットヴィルという小さな町の人々に尊敬はされているものの、経済的には没落の一途を辿り、やがては消えてなくなる存在である。

もう一つのグループは、ジェニー・コーベットの甥で本作の主人公である地方検事のジム・トンプソンや、彼の友人でコーベットヴィルの警察署長であるデイブ・ターナーたちである。彼らはヴィクトリア朝以後の新しい世界をに切り開くべき人々である。しかし検事でありながら警察の仕事に習熟しておらず、デイブ・ターナーから「もっと大人になれ」と忠告されるデイブ・トンプソンに典型的にあらわれているのだけれども、彼らはまだ完全には新時代の担い手として成長してはいない。それどころか下手をすると(本作の一番最後に示されているように)新しい世代は古い世代の考え方を納得し、受け入れてしまいさえするのだ。

このような旧世代と新世代の関係は、ヴィクトリア朝時代に形づくられたメロドラマの型を打破しようとして、結局そこから脱却できずにいた、ミステリの歴史のある時期を彷彿とさせる。こう書くと社会変化の中に文学形式の変化を見て取るのは強引な読みではないかと言われそうだが、案外そうでもないと私は考える。本作の登場人物はみな「物語」と関係づけられているからである。たとえば警察署長のターナーは容疑者の一人がセンチメンタルな物言いをすると鼻を鳴らして「くそっ、イースト・リンみたいなしゃべり方はやめろ!」と怒鳴る。また彼は秘書から「チーフ」と呼ばれるが、それは彼にペリー・メースンを思い出させるのだ。ジム・トンプソンはジェニー・コーベットを「ヴィクトリア朝のヒロイン」にたとえるし、別の容疑者であるシルヴィア・マーポールの人生は「ダイム・ノベルみたい」と評される。こういうところを気をつけて読んでいくなら、社会変化に文学形式の変化が重ねられていると考えることはけっして無理ではないと思う。

ジェニー・コーベットが甥のジム・ハンプトンに次のように語る部分は、とりわけ私に感銘を与えた。
 「私の世代の女たちは現実を直視しない、甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界に住んでいると言われてきたわ。でも本当は、私たち、真実に目を向けることを怖れていない。現実的な考え方を自慢する若い人たちとおなじようにしっかり事実を見ることができる。ただ違うのは、私たちはたとえ人生がどんなに苦しくて醜いものであっても、そのことを口にしてはならないと躾けられてきたということ。口を閉ざすのはひとつはプライドがあるから。もうひとつの理由は、趣味のよさを保つことが大事だと考えているから。淑女は個人的な悲しみや苦しみや恥を人前にさらさない。ジェイムズ、私の義理の妹は悪い女だったわ。それは事実で、私はずっと前からその事実をはっきりと見ていたのよ」
「甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界」というのはヴィクトリア朝時代の生身の女たちのありようを表現しているだけではない。ヴィクトリア朝時代に女性向けに発行された雑誌やロマンチックな小説も「甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界」を描いていると評され、後代の作家、たとえばジェイムズ・ジョイスなどによってそのイデオロギー性を批判されているのである。しかしジェニーは、エディス・ウオートンの名作を想起させるような議論を用いてその批判を批判し返す。つまり、彼らは現実を見ていなかったのではない。見ていたけれども、口を閉ざしていたのだ、と。彼らにとっては decency とか respectability といった言葉で表現されるものを外見的に保つことがなによりも大切だったのだ。それを聞いてジムはこう考える。「永の年月、この誇り高い老婦人に口をつぐませてきた作法(code)を、彼女がついに破らなければならなくなったということ、それがこの殺人事件が招いた、看過し得ない悲しい帰結ではなかったか」薔薇色のイデオロギー的世界が、世上に流布されたような盲目的なものではなかったにしろ、しかしその物語的規則体系(code)はもはや有効性を失っている。私はそんなふうにこの一節を解釈することができるのではないかと思う。

しかし古い物語が通用しなくなったとしても、新しい物語(新世代)は確立していない。よくいえばまだ揺籃期にある。本書において犯人と被害者の人物像が曖昧に揺れているのは、そのせいなのだろう。犯人は憐れむべき環境の犠牲者なのか、それとも憐れみに値しない単なる悪者なのか。殺されたアリシアは、周囲の人間を誰彼かまわず不幸に陥れようとするパソロジカルな存在なのか、それとも甘やかされて育ったがためにわがままになっただけで、じつは魅力的な側面も備えているのか。ジム・トンプソンにはよくわからない。確乎たるヴィクトリア朝的道徳観を持っているメアリ・レノルズは、犯人の邪悪さは犯人が生まれついた家系の血のせいであると、いかにもあの当時の人がいいそうなことを言うのだが、すぐに周囲の人に論駁されて、結局結論はつかないまま物語は終わる。

一回読んだだけなので、この先読み返した際に、解釈が変わるかもしれないが、しかしこの作品のレベルが高いことは間違いない。もしもこの作者が他にも作品を書いているなら、是非とも読んでみたいと思う。